いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

頭の整理

してました。

気付いたら4か月も経っている。

同じようなことの繰り返しになってもいいので、ともかく書き続けよう、多分書き続けられるんじゃないか?と考えていたのですが、ある日パタリと止まった。

書くことに関しては基本的に無理が効かない人間なので、書けないということで悩むことはそれほどないのですが、伝えたいことが何かある状態が継続しているのは確かなので、それが進まないという点では困っています。

今も、ブログは同じようなことの繰り返しでもいいという方針ではいます。

思考の整理ですね。私のブログを書く主な目的は。

ということで、繰り返しになったとしても書けるようなテーマの見直しをしていたということになりますね。

今もまだ書き続けられるようなテーマを設定し直せたというような確信が持てていません。

それでもちょっと書いて整理してみようかな?という状態にはなったということです。

 

停止するまでのテーマは、結構絞れていたつもりだったのですが、まだまだ漠然とし過ぎていたようです。抽象的なことばかりで具体例がほとんどなく、書けば書くほど浮世離れしていく感じがして、それで止まったんだろうと。

 

その漠然とでも自分自身でテーマと思い込んでいたのは、「気付き」を端緒として、私たちの普段従事している思考の方法や、感じ方を詳らかにしよう、というもの。

科学的合理的な思考の方法にせよ、感覚の形成のされ方にせよ、中心を道徳倫理において。

道徳や倫理が中心ということで、当然の如く自他の関係性は外せない。つまり、全て、内心のことであっても、他者との関係性は考慮に入れている、或は、無意識ではあっても影響を受けている、との大前提がありました。これは今も変わっていません。

 

道徳や倫理を中心に据えたいのは、この世界をできるだけ優しい世の中にしたい、という気持ちから。

「優しい世の中」という情緒で感じるようなものなのですが、善悪の判断、それも、無意識のうちに「良い方」を指向している、という仕組み・プロセスまで説明すれば、「ああ。なんだ。私たちって実はもうちょっと優しくなれるってこと??」と納得してもらえないか?という考えでした。

 

理屈で情緒に訴えよう(理屈が先に来る)ということで、あと、理屈が私自身理解不十分で、語りがどうしても重厚になってしまいます。結果読んでもらえない。読んでもらえたとしても、「それで何??」という感覚に陥らせてしまうのだろうと。

あくまでも情緒面がメイン。「優しく」なってもらいたいという方が私自身の願いであり書く動機なのに、ちょっと遠慮しがち。もっとストレートに情緒に踏み込むべきかな?と。結局理屈で説明はするんですが。。。それしか今のところ芸がないもので。。。

どこまで踏み込むのか?

「みんな各自の中で巻き起こっている感覚に目を向けようよ」というところまで。

言葉にならない感覚。

「そんなの考えていられない」「それって考えたところで何になるの?」ってのが罷り通り過ぎている。それでは「優しい世の中」は無理だろうと。

この頭整理期間中も学術論文中心に関連文献を読んでいたのですが、読めば読むほどその思いは強くなるばかり。

瑕疵の無い理論や方法論だけではダメなのだ。

一人一人の言葉にならないような不明瞭で曖昧な感覚を抑圧し過ぎている。

勿論社会で生きていくということは、各自の感覚をストレートにぶつけ合うなんてことはできなくて、多少なりとも抑制はかけなければならない。

「抑制をかける」というよりもむしろ私は、各自の感覚といったって、ピュアに個人所有のものが一人一人の内部に宿っている、というようには考えていない。あくまでも不確かなものが、自分以外のもの・者との関わりの中で表現可能になっていく。つまり、どんなに原初的な感覚であろうとも、関係性の産物だということ。抑制はかかっている。よって「どんな抑制のかけ方がベター?」のようなことは考えなくてもいい。少なくとも真っ先に考えることではない。わけの分からない感覚を表現してみる、ということは、当然の如く置かれたシチュエーションでの適正さなども考慮に入れられている。間違ったりもするだろうけれど。

 恥をかく。

ばつの悪い状況をいかに穏便に、或は、笑って切り抜けられるのか?

そういうのも大事。

やけくそではない勇気。

これらの大事なものがなんで大事といえるのか?を得心してもらえるよう。

説明するだけではないんだろう。

語るのだ。

語りの練習をしなければ。。。