いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

格差問題

「恩寵を導く」社会分析が目標の本ブログですが、私が何とかしなきゃな、と感じるのものの一つが格差の問題です。

私たちは生まれ持ったものも違えば、育つ環境も違います。格差があるのはしょうがないことです。

ただ、あんまり酷いのはさすがになんとかした方がいいんじゃないか?と感じる人の方が多いのではないか?と思います。

特に昨今のようにいろんな情報が耳に入ってくるようになると、豊かな生活と貧しい生活(富の面、文化の面などいろいろな意味で)のコントラストが際立つように感じますので、「何とかした方が」だけでなく、不遇な方にいることが日々感じられれば、そうでない方に羨望したり、場合によっては怒りなどをぶつけたくなったりもするでしょう。で。それは社会の分裂に繋がったりと、結局みんなのためにならないのではないでしょうか?

交換

格差を少しでも小さくしようと思えば、多く持っている人から少ししか持っていない人へモノやそれを買うためのおカネなどが移動しなければなりません。

現代では合法的手段として、通常「交換」という方法が用いられます。

「交換」というのは本来お互いに何かを持っている者同士でないと成立しませんが、現代では多くの人が「労働力」を持っているということになっていて、それをいろんなモノを持っている人たちがさらに収益をあげられるようなカタチに加工するために提供して、おカネと「交換」しているという説明になっています。

まあいずれにせよ、「交換」なんてものが必要になっているということは、格差がある、ということに違いはありません。

「交換」をいかに効率的に、かつ、格差縮小の目標に対して有効に、というその方法を分析・開発することも大切ですが、私は、格差が全くなくなるなんてことはない以上、「どういった時に、人って持っているモノを持ってない人に差し出してもいいと思いやすいか?」ということを考えないといけないんじゃないか?と考えているのです。

数量的には非常に曖昧なのですが、自分がより多くを保持していたい、確保できるようにしたい、という方向に常に一人一人が駆り立てられていては、格差というものは拡がるばかりだろうと。なんせ、知力体力には個人差ありますから。。。ガチンコ勝負をすれば、強い者、賢い者だけが勝ち続けるのは道理でしょう。

希望といいますか、現実にはいつでもどこでも何でもガチンコ勝負でモノコトは決せられているわけではありません。やっぱり日常の中でガチンコっていうのはしんどい。力の差、知力の差だって、全ての条件を同じにして戦えば、案外拮抗しているものですから。戦えば勝者もそれなりにダメージをくらいます。

完全平等なルールを決めきるなんてことはできないですし、なら日常では何が起こっているのか?といえば、タイミングであるとか、コンディションであるとか、コネクションであるとか、ありとあらゆるリソースを駆使して、極端な話、インチキしたりするから一見スマートに勝ち抜けられているように見えるだけなんですね。勝っている方は。

それだけ様々なリソースを駆使する能力が高いなら、例えば勝つことを目標にするにしても、戦利品は広く社会の安定のために活用する、っていう方法だって考えられるのではないか?或は、勝ち負けを決めて、自分の持っているモノの正当性を主張するというやり方ではなくて、最初っから、「おいらここまでで十分なんで、、、」というように、負け続けそうな人々に配慮したルールで競う方法だって考えられるのではないか?

そんな希望的観測を持っています。

この希望的観測を現実のものとするためにも、まずは他者(特に弱げな方の人々)に配慮できるような余裕ってどんな時にどうすれば持てるようになるのか?考えたいですし、それには、安心感・不安感の源、形成のされ方などなどを現実に即して分析してみることが大切と考えています。