いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

情報の情は情緒の情

 私なりのストーリーを書き上げるために

そもそも何が絶対言っておきたいことなのか?

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礼儀正しく参りましょう♪

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マネ

マネはカタチ。

マネはケアの源。

マネはちょっぴりの悔恨を含む。そして憐れみも。

カタチは一瞬で現れる。円形なら、それが認識された瞬間に既に円形を成していて、円形を成すまでのプロセスに思いを致すことは稀だ。

故に、同じ円形でも、それが実は繰り返し現れるプロセスであって、円形を成すために必要なモノどもが、かなり再現性の高いパターンを示すように運動しているということを忘れがち。別の言い方をすると、”繰り返しの時間感覚”が失われがち。例えば、円形というカタチが、あたかも永遠不変に存在し続けるかのようにも感じられる。

この私たちが通常の感覚として感じる永遠不変性がために、ふとした拍子に時間の流れを感じた時には、遅れ一回性、プロセスの詳細(特に通時性順次性)などなどに思いを馳せさせられることになる。

世の中にはやり直し可能なモノゴトも沢山あるけれども、基本的に過ぎてしまったものは取り返せないんだな。

勿論時間の流れなんてものには全く気付かないで過ぎていくのも日常茶飯事。まさか永遠を生きているなんてことは思っていないだろうけれど(私たちは自分がいつか死ぬということは知っている)。

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知性なるもの

マネは時間旅行の結果であり発端。

人間以外のあらゆる生き物も、そして、あらゆるモノも時間旅行をする。

そこに違いはない。

でも、モノは自分たちが時間旅行をしていることもマネをしていることも多分知らない。少なくとも「知っている」とは言わない。

それでも知性と呼ばれるものの萌芽はある。

時間がずれれば、見え方がそれだけ増える。

モノは繰り返し繰り返し起こるパターン。

繰り返し繰り返しほぼ決まったカタチで現れるなら、そこにあたかも知性のようなものがはたらいているように見えるのは自然。知性を持った何者かがそうなるように導いているかのよう。

この全知全能の何かがあたかも存在するかのようなミステリアスさに加え、繰り返し繰り返し現れるほぼ変わりのないカタチは、哀愁を帯びる。受け身の憂い。「起こさせられているのだね。君たち。」たまに気付かされる大なり小なりの変化ですら受け身の証明に見える。「ここまで似ているならなんとかならんか?なんとかしたい!」

パワーは主体という位置付け(Subject position)を得て行使される。しかし、主体への憧れは、何もパワーへの憧憬・渇望だけが動機ではない。必ずしも全知全能の何かに並び、凌駕したいわけでもない。「私がケアしてあげたい」という慈愛。そして常に半歩遅れてしまう悲哀

人間が感情と呼んでいるものの始まりに、やや高度と思われている慈愛や悲哀がある。つまり、これらは人間以外の動物たちも感じている可能性が高いもの。しかし彼らは慈愛や悲哀をあくまでも受け身でしか体現できない。主体と呼べるまでに強力なものは未だ発達していないから。

主体が生まれるにはそれ相応の時差が要る。

生き物とて無数のモノが集まってカタチ作っている。

時差とは、集まっている無数のモノがそれぞれに刻む時間が作り出すより複雑なパターン

人間はそれが出てくるのを待つ。

他の生き物とは比較にならないぐらい待つ。

それは賭けにも見える。

では、待てなくなった人間は一体どこへ行くのだろう。

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情報と情緒

情報に神さまの役割は果たせない。

それなのに、人間は情報をあたかも神さまのように扱っている。

情報の情は情緒の情。

情は、決して間に合わせることができなくても、過ぎ去った過去を素に近似を取り続ける意思に昇華されなければならない。情報によって未来を予測できる、現在をコントロールできると思うのは情報信者の思い上がり。

結果を支配したいと思うのは人間の弱さ。

弱さを強さと偽る時、人は踏みつぶさなくてもいいものまで踏みつぶす。

礼儀は深い、深い。

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未来について想定するということ

人間が現在情報と呼んでいるものは情報ではなく、「こうあって欲しい」という未来、そして、「こうであったらよかったのに」という過去。いずれもこの世には存在しない架空の世界へ私たちを誘(いざな)ってくれる人造物。

とある好ましい現実を望む情には満ちているけれど、現にこの世に存在しているモノ、確かにこの世に存在したモノへの情に欠けている。

「それでもいいじゃないか」といえる根拠は、未来は誰にも分らないという厳然たる事実。

より正確に予測できる方がエライに決まっているじゃないか。

そうでもないのですよ。

確かに起こった過去へのリスペクト。

より正確な未来予測に努めている人も、時々刻々過去へと追いやられていく。確かにその時そこに存在していたもの。ウソ偽りないよりよい未来への意思。それもこれも何もかもが否応なく過去のモノとなっていく。

「こうであればよかったのに」という情は、あまりに自己肯定が強くなり過ぎれば、確かに起こった過去、それを生きていた者達の情をないがしろにしかねない

理想には程遠いのかもしれない過去も、生身の人間がそれぞれのやり方で生きていたのですよ。

礼儀正しさは、現にこうして生きていることの価値を痛いぐらいに感じ入ってこそ。さもなくば途端に失われてしまう程フラジャイルなもの。

さらに言うなら、私たちが生きている現在が理想に近付いているという証拠はどこにもない。過去と並べて見ようが見まいが。

過ぎ去ったモノゴトとはいえ、私たちには何かを断ずる能力も権利もありはしないのです。

慈愛と悲哀。

失ったわけではない。

自己肯定が強過ぎるだけ。

思い出してごらん。

慈愛も悲哀も主体よりずっと先に生まれている。

受け身なのです。

感じさせられているのです。

慈愛や悲哀の情を覚え、他者へ慈悲を送り届けられているからといって、特定の誰かのお手柄なわけがない。

そうした営みはいわば自然の摂理なのです。

成果の独り占めは礼儀正しい態度とは言えません。

情報の情は情緒の情。

情緒は確かに起こったことをより正確に追跡していくための鍵。

慈愛や悲哀こそが、意味ありげなパターンが発生しそうな場所(情報の出所)を教えてくれるかもしれない、というサイン。

か弱そうなモノに対して湧く慈愛や悲哀の情を振り向かなくなってしまっては、人間に明るい未来など待っているはずがない。

これは人情噺などではなくサイエンス。

確かに起きたことについてできるだけ膨大な量のデータを集めて近似をとる。切り捨てていいものなんて実は何一つとしてない。データは見えなくても探し当てるぐらいの気持ちがあって当たり前。

そうすることによって、より正確な未来予測に従事していると言える。

過去を置き去りにした未来予測は隙を生みやすい。

肥大しがちな自我が忍び込む。

明らかに弱げなものをケアしたいと感じる思いは自然なもの。意識の世界のことのようでありながら、自然などから呼び起こされているという意味で受動的。慈愛・悲哀の情は、決して人間のチカラのみで生み出されているのではない。

特定のグループに属する者達だけに見える情報などというものもない。ありとあらゆるものが時間旅行を続け、マネを続けている。何もかもが情報になり得る。

どんなにいいものであってもゴール(何が情報か)を予め決めてから話は進められない。それができればモノゴトは簡単だ。ゴールを決めると始まりも決まってしまうから。ジレンマ。始まりも終わりも決まってしまっていたら、参画可能な人も限られるだろうし、無理に参加したところで実質意味ある貢献ができるものでもない。却って「お前らも参加してたじゃん?」って、合意形成を遅らせるような意見などが沈黙させられる。結果多様性はどんどんと低下し、物事の始めと終わりを決めることができる者達のお好み通りに世界は収斂する。

オープンエンデッドというレトリックにも注意が必要だ。始まりは誰にも決められない。「何かがそこから出てきそう」と言えるだけ。そう言えるように工夫しなければならない。「答えはオープンよ」とやさし気な顔で言ってくる連中は、決してオープンマインデッドなわけでもカインドなわけでもない。むしろ真逆。ゴールがどう記述されようが自身の身の安全に疑いがないから「勝手に喋ってれば?それで気が済むなら。」なんてことが言えるのさ。彼らにとって想定外の未来など存在しない。ゴールも見えないのに自由に話せるものではない。「自由に何でも喋っていいよ」なんて言っていられるのも、彼らにとってゴールはオープンなんかじゃなく暗に決められているから。未来がオープンであることなんて誰の目にも明らかだ。それをわざわざ言ってくるような輩には警戒を怠らないことだ。情勢変われば即刻彼らなりのゴールを示し、そこに至らない者達をシャットアウトするのは目に見えている。彼らにはそれだけの力がある。

ただ望ましい未来を思い描くこと。そんな何気ないことだけで語り得る範囲が規定されてしまうことについて、私たちはもっと敏感であるべきだ。

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礼儀正しさの科学

悪いウソというものがある。

情緒の情を報じもしないし、報いようともしないウソ。

「内心で起こることなんて自分以外誰にもわかりゃしないんだから」という考えは神さまを冒涜している。

「神さま」というのが非科学的でイヤだというのなら、確かに起こったことを隠匿することの科学的意味について考えてみるといい。

情というものはそもそも起こさせられるものであって個人の排他的所有物ではない。広く皆で分かち合われるものだ。確かに起こったことをより正確に知るために。発信する術を持たないがためにやり過ごすことはあっても、意図的に改ざんしたり隠ぺいすることは科学的探究を妨げる。

情が機械で探知されるもの(電気信号?)だとばかり理解するのも愚かしいことだ。いかなるパターンを電気信号が明らかにしようと、感じた情を報じるにしても、これに報いるにしても、探知器は肩代わりしてはくれない。慈愛も悲哀もそれを大切と思うかどうかは私たち一人一人。電気信号が描くパターンに何を語らせたいのか?「これがあなた方の情というものの正体だ」と言うだけならまだしも、「以後情の取扱いは探知器・計算機に委ねなさい」などというのは行き過ぎだろう。

現代的自我にまみれた哀れな子羊たちは、か弱き他者への情愛よりも、自身に降りかかる苦痛の方に注意が向きやすい。オープンエンドを気取るような、普段苦痛からは縁遠く、よって苦痛への耐性が弱い者達はより哀れだ。

苦痛であろうが何であろうが自身の情に目が向くことは貴重な機会だ。しかし、情というものは「どう見るか?」がさらに大切。

現代の子羊たちが哀れであるのは、折角情に触れても、その本質とは程遠い曲解を捏造することでしか自身を慰められないところにある。別の言い方をするなら、情を実情などお構いなしに自身の知っている言葉でのみ解釈しようとする。自分自身の感じたことをどのように解釈しようが勝手だということだ。

真理からいかに遠かろうが、本人たちの慰めになっているのであればそれでもいいのではないか?とも思える。

でも、子羊たちが哀れとはいっても、広く社会に及ぼす影響力が大きいのであれば、ナルシシスティックに自慰に耽っていてよいとも言えないだろう。結局自分の知っている言葉だけに執拗に拘っていられるのも、世間に相手にしてくれる仲間がいるからなのだ。弱き者達にそのような贅沢は許されていない。かたまって暮らすことはできても人生を謳歌し合うことはできない。

哀れなのは能力のある方の人間たちがそれほどまでして信じようとしているものの土台の脆さ。空虚さ。

そうあって欲しい未来だけをただただ願い続ける。

未来なんて誰にも支配できはしないのに。

見たいものしか情報に見えない。見たくないものは情報として見ようとしない。

そんな都合のいい情報世界で見たい未来だけを目指すことが勤勉に努力するということらしい。「日夜努力しているだけでも称えられるべきなのに、何故さらに苦痛に苛まれなければならないのか?」という泣き言。他に悲哀を感じ慈愛を届けるべき者が存在しようとはよもや思いもしないのだろう。

他者・他物から慈愛や悲哀を覚えさせられることは目出たいことなのだ。生き物として正常に機能していることの証でもあるし、人間であるなら、数少ない自然のプロセスとの直接的接点なのだから。

より確かな信仰の対象とは、繰り返される日常にこそある。

私たち人間とて、繰り返しほぼ同じカタチで現われるパターンの一つに過ぎない。それでも、ほぼ決まったパターンといったって、私たち自身が「つまらない」と断言できるものではない。

先が知りたければ待つよりほかない。いかなるパターンが生まれてくるか。

確固たる信仰なるもの、信じて待つところにある。

情報の情は情緒の情。

情報は私たちの恣意で勝手には決まらない。慈愛や悲哀などの情緒が様々なモノの関係性から湧き起こるように。

勝手に走るべきレールを決めて、そこを走ることを努力と呼ぶのはあまりにもイージー過ぎるし、慈悲にも欠ける。

慈悲に欠けるということは、中立公正・客観的立場をとっているとかではなく、私たち人間がどう認識するか?とは全く無関係に存在する事物(いわゆる物質世界)との関わり合いを絶っているという意味で、より非現実的、幻想的なのだ。

私たち人間は、自然と触れれば慈愛と悲哀の情をもよおさずにはおれない。

再確認しますが、情は主体が確立する以前のこと

主体が確立した後ですら、自身に悲哀を感じているのやら、自然を慈しんでいるのやら、境界線は判然としない。

一つ間違いないと言えるのは、自身も自然も時間旅行を続けており、私たちが自然に思いを致して慈愛や悲哀の情を感じる時は、彼我の時間の流れが部分的にではあれ重なっているか、或は、少なくとも一部が相似形を描いているということ。私たち人間の側から言わせてもらうなら、人間が自然を写し取ろうとしている時。自然を愛でる気持ち。コピーはどうしても遅れてしまうことからくる哀愁もそこはかとなく漂う。

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時間を知ろう(空間とともに)

自己複製という言葉はミスリーディングだ。

そもそも自己なるものが確立される以前のお話。

単細胞生物が自己複製する?

私たち人間は、自己複製するとはあまり言わないし、その他の割と大型の哺乳動物でもそう。いや。植物にしたって自己複製と呼ぶのはとあるパーツ(遺伝子)に限ってのことでは?

単細胞生物や遺伝子に自己複製という言葉は妥当なのだろうか?

コピーがいかに精密でも、この世に存在する別々の個体が同一とは言えない。厳密には。

それらを同一のモノと見做すのは人間。

あたかも同一のモノであるかのように取り扱ったり振る舞ったりするのがその他の生き物たち。

やはり多くの生き物は受け身的だ。

人間だって全てが自律的能動的なわけではないし。

自己増殖ではなくて単に増殖ではダメなのだろうか?単純に数が増えていく(かなり爆裂的に)ということなのでは?ほぼ同一の形質・性質・機能・構造を持つモノが。

大量コピーは大量喪失の可能性を感じさせる。

増えている本人たちに繁栄だとか種の保存のためのリスクヘッジだとかは感じられていなさそう。

確実に感じられているであろうものはカタチ。

似ている/似ていないはかなり迅速に判定されているように見える。

似ているの裏側には似ていない。ほとんど表舞台に出てこないモノたち。

一瞬の判定は、ものによっては光の速さ。

光は速さだけではない。

エネルギーの大きさと多様さ。

情報の塊。

カタチには要注意。

永遠不変のカタチそして情報。一瞬で、私たち人間の目に、”意味あるもの”として映るモノたち。

どんなに精巧な認識システムをもってしても零れ落ちてしまうモノたち。

何処かで折り合いを付けなければ。

私たちは、私たち自身のカタチが永遠不変でないことを知っている。

限界の存在を知りつつ、正確な限界を見極めることが難しい、葛藤の世界に暮らす私たちにとって、慈しみは不可欠。

目に見えるカタチのみで人々の考えや行動をそろえようとするのは、人間自らの弱さを省みないがために起こる暴力だ。

礼儀正しさは悲哀の情とともに。

日々のあれこれをマネージするために

 

おカネの魅力、事実認識、セルフイメージ

世の中にはすでにジャンルというものがある。書くものに限っても。

そしてジャンルによってカネになり易い、なりにくいというのも、時代とともに移り変わりはあれどもだいたい判るようにはなっている。

ブログライティングというのは比較的新しいジャンル。うまくいけばおカネにもなる。さらにおカネになるような達人ともなれば、名が売れるので、別ジャンルへも手が広げられるようになる。

無職無収入生活が長くなってきたので、私もおカネの問題は切実。

もともと書き屋ではないので、カネになるようなものを書けるようになるためには、わりとシステマチックに手法というか技法を習得するのが早道ではあると思う。

なんだけども。

実は書き屋は目指してないのよね。

私が書く動機は、人間の意識を変えるというか、意識を操作する方法をより明確にする、ということ。(明確にしさえすれば、誰でも使えるだろうと、結構安易に想定している。)

現代人の意識ってどうしてもおカネ問題に引っ張られる。生活していかなければならないから。(勿論それ以上(例:自己実現とか)を目指す人々も多いのだけれど。)

いくら「書くこととおカネとは直結していない」と決めたとしても、気持ちは引っ張られる。カネになったらいいなー。

おカネは大事。しかもおカネほど便利なものはない。より多くの人がそこそこの生活レベルを享受できるような世の中を実現するために。

ただ、貯め込み過ぎて動きが理想よりも鈍い、とか、貯めてないけど「こんぐらいは最低必要」と見積もる額が実は不正確なために余計な不安感を煽ってしまっていたり、とか、もうちょっと上手く使えるようになった方がいい。

個人的にはベーシックインカムを目指したいのだけれども、これって、別におカネを全員に配ることだけではないと考えている。

仕事の意義であるとか、生産性のこととかは議論されている。

私が、意識の操作方法を明らかにしたい、と思うのは、そうすることで、より事実認識を楽に、かつ、大きく過たずにできるようになるのではないか?と考えるから。

もしも事実認識が楽に間違いを少なくできるなら、おカネをいくら持てるか?貯えられるか?を正確に積算しようとするよりも、よっぽど楽に過ごせるのではないか?と考えている。

極端な話、「時々間違ったり、かなり無理な賭けをやって負けたりしても大丈夫なようにするにはどうしたらいいか?」というところまで考慮に入れたい。カツカツに効率性最大を計算した計画は、計画自体は美しかろうけれども、現実に計画通り実行されることはほぼないだろうし、現実的な”ゆとり”(あそび)は考慮に入れられるべき。

万人に定額のおカネが支給されるというのは一つの手だけれど、もしも、友だちとか親類同士、或はあかの他人であったとしても、「あらー。やっちゃったの?」ってちょろっと死なない程度に助けてくれるような世の中なら、なんかやさしいかんじがするんですよね。で。それって結構幸せな状態なんではないか?と。

みんなで上へ上へと行こうとすることによってかえって不安感を増すのではなく、上も下もなく、それぞれが「自分って何者?」ってのを正しく理解できれば、今ほどには他人を敵視というか、自他の区別をシビアにしなくても済むんじゃないのか?と。

理想は、持っているなら進んで持ってない人に与えることなんだけれど、今そのような状態を想像するのは難しい。

上に向かって(誰に対してだか、いくらだかもよく判らないのに)「無駄なもん(おカネ)は吐き出しちまえ!」と叫んでもあまり効果は上がらなそう。

なので、まずは「事実をなるべく正確に認識するってどーゆーこと??」ってのも含め、より意識的に正確な事実認識ができるように、意識の操作方法を明らかにしてから、その方法でもって日々着実な事実認識のもと人生をエンジョイすることを目指したい。

書いたり読んだりは、内容であるとかその質であるとかを度外視したとしても、それ自体でかなり有効な手段だと考えている。

ただそれだとイマイチねー。効果が分からない。。。いろんな書き方読み方があるわけで。。。書いたり読んだりしたからって必ず事実認識力が上がるか?というとどーもそういうわけにもいかなそう。。。おカネに対する意識が社会全体として変わらないなら、みんなおカネやそれにつながりやすい評判なんかに必要以上の価値を置いちゃうわけだし。。評判さえ得られるなら多少事実が捻じ曲げられようが構わない。。。ってね。

何度か言ったことがあるとおり、直接的に表現すれば、核となる目標は、「自分自身を知ってどんどん濃くしていく」ということになるんだけれども、これまた度々言っている通り、「自分自身」って何???っていうのがね。。。現実世界に特に確固たるカタチをもって存在しているものでもないので。。。いろんな解釈があり得る。

さらに物的なコト(特に「生きていくために必要不可欠なエネルギーをいかに確保し続けられるか?」)も考慮に入れないわけにはいかない。

交換可能性・期待・信用

「おカネには強烈な引力がある」

というのはあくまでも推定のお話。

一体”おカネの引力”とは何なのか?

私は卓越した交換可能性にあると見ている。

交換可能性が高いと人間は無視できない。

生きている以上衣食住や健康・安全に意識が向くことは避けられない。これは本能というよりも、言葉にするとそんな感じということ。だから、必要最低限とはいっても人により違ってくる。よって、衣食住や健康の基準なんかを作って管理することは本来不可能。

生きていく上で最低限必要なエネルギーというものはあるし計算もできる。でも、日常生活の行動を考える時、その数値を基準にすることはできない。それはあたかもマシンとかその部品を扱うようなもの。

交換可能性の高いものに注意が向くというその注意の対象の中には、生きていくために必要な物的資源にありつきやすそうかどうか、という見込み情報も含まれる。しかし、たとえ原始生活を営んでいて、木の実を拾ったり、狩りをして動物を捕まえたりしていても、木や動物たちが、採集や狩猟に費やされるエネルギーとの交換で生命維持に必要なエネルギーを与えてくれるとは考えていない。お腹が空くと食べられそうなものを探すけど、先人から伝わる知識に従う場合もあれば、自身の経験に頼る場合もあれば、それらをもとに新たなものにチャレンジする場合もある。生きていくのに必要な交換というのは、直感に従っているように見えて実はいろんなモノゴトが関連付けられた上で現れてくる”意味”のようなものに駆動されているようだ。

ポイントは、「ありつきやすそう」「食べられそう」という期待

期待はあくまでも期待であって確定的な事実ではない。

期待には、人それぞれの事実認識が作用する。

期待がどれ程実現性の高い/低いものか?という(不)信頼性にも関係する。期待がそのとおり実現するかしないか?を信じる/信じないの自由がありそうだけれども、実は、結局どっちにするか?ほぼ”決めさせられ”ている。つまり、「信じる」というと「自発的に選んでいる」と思われがちで、それ自体は悪いことではないけれど、逆に「信じない(期待なんて別にしてない)」場合もあって、こちらは、別に「『信じない』と決めている」なんて思わず、行動をとったりとらなかったりするわけで、結果として、内心では全く信じて(期待して)なんていないのに、他者から勝手に”消極的にではあっても信じている(とある期待感を持っている)ことにさせられてしまう”ことが多くなる。

期待は内心の現象だけに勝手に解釈もされてしまう。大体に置いて様々な証拠を提示されたりして(算数で出てくる期待値なんてその最たるもの。だっていつの時点の誰の期待??なんてまるで無視でしょ?とある事象がとある確率で発生するというほとんど何にでも当てはまることが、とある時点での”期待”と称される)。しかしこれは、科学的実証主義というよりもパワー(権力関係上の不均衡)

例えば、大雑把な話になるけれど、「交換は促進された方が広く社会の利益になる」という証拠は山のように出てくる。そうすると、「何を?」についての細かい議論に入ることなく、ともかく基本姿勢として「交換を妨げない」ということが規範として強制されるなんてことになりやすい。

交換は、「物質的便益追求」と「その土台となる信用すべき他者とのつながり追求」という、相互に関連しつつも、独立した次元で実施される。そして、両次元とも、権力関係上の不均衡が前提になっていて、格差拡大の方向に作用する。

物的便益追及のための交換可能性は、証拠を提示する者の語る”意味”によって高められ、信用してみようと決めるかどうか?は似た者同士を志向することによって可能性が高められる。その結果、階層化が進み、固定される。

格差拡大の仕組みについて、もう少し詳しく見てみよう。

 

証拠を提示する者は、基本的に提示される側との互恵関係を想定しているけれど、「互恵」とは、相手方の期待の書き換えを伴う。「期待を書き換えられてしまう」ということは、「実質声を失う」ということ。そもそも交換は、関係が不均衡だから発生する。交換することで利益になりそうだと気付く人がいるから交換は始まる。勿論交換が習慣付いた現代では、双方同等のイニシアチブでもって行われているように見える交換も一般的ではある。そういった場合でも細かい話をすれば、相互に自他の違い(強み弱みなど)を考慮に入れているのであって、”同等””対等”などというのはあくまでも契約書上の権利義務関係の話(それでも”甲乙の関係”って当たり前にあるぐらいだし)。

人間関係にまつわる信用が似た者同士を志向するのは避けられない。何故なら、この信用は、生存のために不可欠だから。お互いのやることなすことの意味が全く分からないような状態で長生きするのは難しい。でも人間個人差こそあれどこに行ったってなんとなく馴染みながら生きていける。これは、「『信用しない』という選択肢が実質存在しない」ということ。ここでも期待が働いており、より力関係上弱い方の人々(例:移民など)のストーリーでは、なんと自分自身の期待の書き換えが行われる。強い人たちの開発した、彼らにとって理解しやすい語彙を使ったりすることによって。したがって、物質的便益追求のための交換に伴う参画者間の関係(互恵契約関係)との違いは、格差拡大へのプロセスが”遠隔自動操作的”であること。特にパワーのある者から直接干渉されることもなく、勝手に似た者同士で固まっていく。

階層(持っているものの量や質)が隔たった者同士では、積極的交信が起こりにくい。下から上への”想像”は起こりやすい。サインを使った抽象化は皆お手のもの。他方、上がその「下の上についての想像」に気付く可能性は低い。整理され切った主流の世界に住む人がややこしい個別事案を気に掛けるというのは稀。 

さらに、物質的便益追求において、互恵関係が想定されていることもあって、上が下を搾取しているとの疑いは抱きにくい。人間悪いことも「あくどいことしてやろう」という意識では、中々やり遂げられない。バレ易くなってしまうし。。大概において「なすべき理由」みたいなものが設定されている。まやかしではあってもね。

こうして、上の方もすっかり善意なまま格差が拡がっていく

この放っておけばどんどん広がる格差をなんとかしたい。

特に私が拘りたいのは、善意なまま格差拡大に貢献してしまっている層に、事実を認識してもらう、ということ。

「今を生きる」「一人一人の唯一無二の人生に責任を持つ」

 

めちゃくちゃ大雑把にまとめると、「ええもん」なんてこの世にいないんですわ。

サイン使って日々を過ごしている時点で、生きているモノ、植物だって動物だって、そして、人間だってモノ扱い。

「そんなことしてない!」って言い張ってもムダ。

”サインに従って生きる”んじゃなくて、”サインを使う”というのはそういうことだから。

特に人間は、偶然を偶然とのみは受け止められなくなってしまったわけで、よくえらそーに未来予測ができるの当たるのって言いたがるけど、それってなんもエライことではなくて、どちらかというと”目くらまし”。

本当は誰も未来がどうなるか?なんて分からない。未来どころか、現に目の前で起こっていることだって本当に分かっているんだか怪しいもの。

「分かる分かる」って賢げな人とかそういうキャラにあこがれる人はすぐに言いたがるけれど、そういう態度って実は人殺しなんだよ。本当は生きていて、一瞬のちにはどう変化するのか分からないのに、「大体こんなモノでしょ?」とかいって他者のことを適当に決めつけちゃうわけだし。

勿論クセとか習慣とかあるし、過去にどう振る舞ったか?によってジャッジされることは避けられない。むしろ、社会秩序を守って生きていこうと思うなら、自らやったことには責任は負うべき。

それでも絶対はない。

分かる分からないは常に葛藤の連続。

これ、「非効率」とか「ムダ」とかいって、何とかして現実のあれこれをなるべく固定化されたモノゴトで埋め尽くそうとする。

安定的で迅速な事実認識のためには大事なことではあるけれど、あまりにその大事なことに対する責任感が薄いと感じる。

これはあくまでも私の好みでしかないけれど、無責任に便利な生活を求めるぐらいなら、多少不便であっても責任ある生き方をしたい。

「だっておカネなきゃ生きていけないじゃん」とかいって、ただの情報媒体でしかないおカネをモノのように扱って、「自分の知識なんだからおカネに交換して何が悪い?」と言ってみたり。。。

そもそも特定の人の知識なんてないし。

自分がかかわった知識が価値あるものだというなら、せめて稼いだおカネぐらいは情報媒体として社会に広く還元してもらいたいところだけれど、おカネも自分のモノって思い込んでいる以上、そんな還元なんて望めない。

知識や情報についての理解が浅すぎる。ついでに自他の境界(所有権とか)についても。

勿論現代に生きている人だけの責任ではないけれど、「ジジイやババアもやってやがったんだからええやろ?」ってのもどーかと思う。

そんなことはどうだっていい。今を一生懸命生きているだけ。

そうそう。

それが一番大事。

今を一生懸命生きるってのは、スーパーレフレキシヴであるということ。別の言い方をすると、モノゴトを分かる/分からないにまつわる交換可能性と唯一無二性について葛藤することを厭わないこと。殺してしまった現実があるなら、きちんと憶えておいて、いつかきっと償うと心に刻むこと。

過去にも未来にも今を生きているあなたはいない。でもあなたは過去の人間いやそれ以外のモノゴトを引き継いでいて、そして、おそらくまだやってくるであろう未来の道筋となる。うまくいかないことだらけであったとしても、今を一生懸命生きるというなら、全て自分で引き受けて残していくこと。カッコイイ仮面ちゃんだけ遺して、「これを真似ろ!」ってのは、厳しいだけじゃなくて、道を誤らせるよ。私たちが今まさにその道を歩みつつあるのかもしれないけれど。。。

ソーシャルエンジニアリング

交換可能性の高いモノは貯め込まれやすい。生きていくために必要性が高いから。

しかし、人間の認識というのはそれほど信頼性が高いものではなく、交換可能性への期待というのも必ずしも正確に実現性を予測できているわけでもないし、何のためにそもそも交換可能性の高いモノを追い求め、そして、貯め込んでおこうとするのかさえすっかり忘れてしまう。

交換可能性が高いモノを求め、貯め込もうとするのは、そうすることにより、より安定的な未来が期待されるから。

安定的な未来が期待されるということは、当然物的資源の確保が、量的に(あとできれば質的にも)十分で、持続的でもあるということが期待されているということ。

しかし、日常生活を送る中で、物的資源を確保するため、各人が直接的手段のみに訴えれば、有限な物資の奪い合いになることは自明。また、与えられた環境により、物資の分布にはバラツキがあるけれども、手近に必要な物資がない場合でも、手をこまねいて自滅を待つようなことはしない。つまり、あるところへいって奪い取る、交渉して何らかの分け前を獲得する、なども含め、利用可能な資源が他にないか?を探る。物資の過不足は、その時、その場に居合わせた人々の感覚にもかなり大きく影響を受けるため、計算上足りているとしても、さらに利用可能な資源を探る。したがって、現に存在する有限物資を食いつぶす、或は、それを巡って奪い合う、のみではない、ということ。

現存する物資のほかに、さらに別の可能性を探るにあたって、人々が通常とる行動は情報交換、或は、ネットワーク作り。現に存在する物資に限っても、それがいつ、どこに、どれぐらいあるのか?万人が等しく知っているわけではない。ましてや、まだ知られていない物質なんて考慮に入れた日には、何気ない情報のやり取りの中で、偶然誰かがひらめく、なんてこともあり得るだろう。つまり、現物獲得のための直接行動をとるよりも、準備に膨大な時間が費やされているといえる。

この準備がコミュニティやさらに緩やかで大規模な繋がりとなって現れる。社会といわれるもの。

さらに考慮に入れなければならないのが、あそび

準備とはいっても、万人が24時間体制で、生きていくために必要なエネルギーのことばかり考えている、と考えるのは非現実的。そもそも何がどこにどれぐらいあるのか?が不確かだから情報を集めようとする。この情報収集のためには、接する人々の間で一定の信頼関係が築かれる必要がある。「一定の」というのは、各人が自分以外の者(モノ)からもたらされる各種情報を信じるかどうか?少なくとも情報を情報として理解できる必要がある。

信頼関係というのも、したがって、確固たる礎のようなものがあれば理想だけれど、実践の場面では、各人がかなり細かく「信用していいかどうか?」について検討していて、その結果たまたまではあっても、複数人の間で「お互いのもたらす情報を信じてみよう」と決めるから、合意のようなものが形成される。当然各自のもつ情報は様々であるから、関係は均等平等ではなく、それぞれの強み弱みが作用するような動的で非平衡な関係の下、交渉が進む。

動的で非平衡ということは、いつ、どこで、どのようなときに交渉が発生して合意が形成される(平衡状態に至る)のかはわからない。勿論より安定的な交渉の場を求める者も多数現れる(マーケットの形成)けれど、それよりもはるかに多くの人が従事するのは、とりあえずの安全確保。生存に必要なエネルギーを確保するための物資調達につながるかどうか?は、安全確保の結果ついてくる感じ。つまり、食っていかなければならないのは重々承知しているけれども、常に食べ物を確保するために必要な直接行動をとっているわけでもない、ということ。

より安全確保について詳しく見てみると、何をやっているか?といえば、とりあえず群れる。それがない場合は似た者集団を形成するなり、既存集団にジョインしたりする。

人間の場合、現代では核家族があるけれども、それがなくとも周りにはたいがい人間はいるので、それを頼りに自己イメージを形成していく。その形成過程で、ほとんど意識しなくとも、常時接する人々に似てくる。

これは、見た目もあるけれども、それよりも内面的経験が似通ってくる方が大きい。それは人間のとるコミュニケーションがかなり複雑なサイン(言葉)を媒介として行われるから。

単純にとある形質をもつ人々を繰り返し見続けるだけでもなんとなく似てくるということもあるけれど、言葉があると、見た目よりも、動き方であるとか、そのワケ、目的なども分かってくるので、各人が内心で「似てる/違う」を判定して、そう感じるようになる。つまり、極端な場合、見た目は全く似てないけれども、お互い似た者同士と信じているということも普通に起こる。

こうして、似た者の存在を認識しておけるだけでも、安心感は格段に向上する。いつでも助けてくれる、なんてことはなくても、とりあえず世の中がどうなっているのか探りを入れたいときに、貴重な情報源となる。貴重な情報源とはいっても、そもそもつながりをキープしておくことが重要なのだから、なにも物質的な情報のみをやり取りするわけでもなく、挨拶もシンプルかつ重要な手段だろうし、たわいない雑談や冗談でもって楽しい時間を過ごしたりもする。

一旦まとめてみると、人間は生命維持に必要なエネルギーをより確実に継続的に確保できそうな状況を作り出すために、一見本来の目的(生命維持に必要なエネルギー獲得)からするとムダとか無関係と思われるような行動をとりながら、他者とのつながりを確立し維持する。

それでも本来の目的は生命維持に必要なエネルギーの確保なのだから、それ自体をより多く集めたい。で。より多く集めようとするなら、すぐに気付くのが有限性。有限であるなら節約するか?チャレンジングではあるけれども創り出す。

実際様々な技術を駆使して人間は本当に多様な物を作る。しかし、より厳密に見ていけば、エネルギーは創り出していない。人間が、生命維持のために摂取可能な形にエネルギーを変換しているだけだ。さらに厳密性を高めれば、人間が摂取可能な形への変換も、ほとんど他の生命体に依存している。間違っても、人間が石油飲んで生きていけるようになんてできていないし、百歩譲って直接人体に取り入れ可能な化学物質を作り出せるようにはなっているけれども、そうした物質を取り入れるだけでも生きていければ構わない、と考える人はごく少数だろう。気持ち悪い、やっぱり食べるのを楽しみたいっていう感覚的な懸念やこだわりもあるし、健康面にどのような影響がもたらされるのかもわからない。

要するに、人間の知恵がどれ程発達したように見えても、技術でできることは、エネルギーを人間が摂取可能な形に変換する、ということ。言い換えるならば、いかなる技術も、エネルギーが人間にとって摂取可能な形に変換されることにつながらないないなら、価値がない、ということ。

現代に観察される危機的な錯覚は、「おカネの価値に換算される技術や知識が価値あるもの」と思い込まれていること。

では、科学技術以外の知識に価値はないのか?と拙速に問いたくなる人も少なくないかもしれない。散々長々と情報交換のためのつながり作りについて述べ、「あそび」にまで言及した通りで、現実に人間が摂取可能なようにエネルギーを変換するための技術が研究開発され、実現化されるためにも、人と人とのつながりがまず確保されている必要がある。どのような人の間のどのようなネットワークか?に関わらず、情報が流れ、現実が一体どうなっているのか?がより正確に探索できるような状態が確保されていなければ、そもそも技術開発そして実現化が滞ってしまう。何故なら、科学技術の開発自体もエネルギーの制約は受けるし、その実現化となるとさらに制約が厳しくなる。つまり、現在既に観察され始めている通り、投融資計算上十分な回収率が見込まれるような技術開発が次々と実施されていく一方で、エネルギー制約を解決はできなくとも緩和する方向で機能していないため、現実の経済活動が停滞したまま、という現象が起きてしまう。

まず目指されるべきは、いかに摂取可能なエネルギーをエネルギー制約の観点から効率的に作り出せるか?そしてこれまたエネルギー制約の観点から効率的に分配するシステムを作り出せるか?

おカネ計算上の効率性ではなく、現実にどこにどれぐらい摂取可能なエネルギーが不足しているのか?を把握するためには、人々の安全確保のプロセスまで考慮に入れた、需要を把握する必要がある。この需要というのは、様々な価値観を持って、異なる環境で暮らす、人々の異なる期待感に影響されるため、非常に動的であり、また、一見とある集団内において合意に基づいた生産分配が行われているような場合でも、様々な物的及び非物質的な資源の交換が行われておれば、それは集団内部に、洗練度の差こそあれ、ステマチックな階層化が存在し、下層の者たちのニーズであるとか期待感は集団のそれに書き換えられており、当該集団内部に限ったとしても、エネルギー制約上効率的な資源分配が実現されているとは限らない。

次の記事では、エネルギー制約の観点から効率的な資源分配とはどのように実現していけるか?その方策として、いかに個々人の事実認識が重要になってくるか?また、比類ない交換可能性向上メディアであり、情報媒体でもあるおカネに期待される役割についても詳説していきたい。

キーワードは動的非平衡な交換で形成される信頼関係と個々人の常時変遷する期待感(物的資源探索・確保及びその土台となるべき他者とのつながり確保に不可欠な相互理解(意味の交換)可能性への期待)、そしてギャンブル

楽して生きたいところだけれど、それはそれぞれが個人単位で追求している限り不可能で、自他の曖昧な境界線と向き合うぐらいの苦労は覚悟しなければ、延々と後世に問題を先送りするばかり。一人だけ、身内だけで生き抜けようなんて稚拙で醜悪な気持ちは、がっつり向き合った上で、極力示さないように努めることです。「そんな醜くない」って言い張ったり、無視しちゃっていてはいつまでたっても抑制なんてできない。基本です。

ファシズム:全宇宙完全コピー作成

 

おそらく歴史的な経緯のせいでしょう。知識人は嫌いですね。この言葉。

まさか自分がファシストだなんて思わないですね。

残念ながら、私たち人間は全員漏れなくファシストの素養を持っています。

これは仕方がない。努力でどうこうなることではありません。

私たちの認識能力は、一発で個々の絶対値を計測するのではなく、比較、コントラスト、差異によって物事を識別していくからです。

感知した差異、濃淡とか強弱とかが、どれぐらいの範囲で適用可能か?、或は、どういった状況なら有意な差異であるのか?はどうしても気になるのです。

「気になる」という言い方が嫌いなら、相対的な違いだけで、物事がどれだけ明瞭に識別できるか?を想像してみるとよいでしょう。

AとBは明らかに異なるモノだと伝えたいのに、似たようなモノとしか理解してもらえなければ、誰がどう見ても異なるのだと理解するような性質、特徴など、つまりは、決定的な違いを探して、提示しようとするでしょう。

AとBというような個別の案件に出くわしたら、そのように厳密に対応するかもしれませんが、私たちの日常は比較的なあなあで流れていきます。だいたい似たような理解の仕方をする。似ているもの、異なるもの、について。

つまりは、個々の厳密な違い(絶対的な値)よりは、「みんなの理解」という結構曖昧な”カテゴライズ可能性”の方を重視するのです。常識とか、慣習、風習とか言われるようなものです。明瞭な定義よりも、なんとなくでも囲ってしまえるかどうか?について理解を共有できること、つまりは、いつでもなるべく簡単に分けられるようにしておくことが重要。

群れるなとか、権威にすがるな、とか言われても無理な相談なのです。

だって、正確に絶対値を計測して調べることなく、だいたいの感覚で、同じもの、異なるものなどの区別を、かなりな数の異なる個人の間で合意しようとするんですよ。「そーやんなー!?なぁ?」「ま。まぁね。」って、元々似たような感覚を持った似た者同士(群れ)ってだけではなくて、力関係も影響するじゃないですか?賢い/そうでない、とか、信用できる/あまりできない、とかいう人間関係も含め。

では、私がマガジン『動的平衡の社会学』繰り返し推奨しているアナーキズム「群れない」は何なのでしょうか?

どうしても消せないファシスト的な素養に対するけん制でしかありません

ただ「私たちは一人一人ファシスト的な素養を持っていて、それは決して消し去れはしないものなんですよ」と言い続けるためのものです。

「自分はファシストなんかじゃない」と言いたくなる人が結構多いように、ファシズムというのは危険です。歴史が証明しています。

その素養を誰もが持たされていて、決して完全消去はできないわけなので、注意して付き合っていくしかないでしょう。

間違っても、「ああ。自然の決めたことなんじゃあ刃向かってもムダよね」とか言ってヤケクソになってはいけません。

それでは世の中にあるありとあらゆるルールが無意味になってしまいますね。

生まれて死ぬのも自然の決めたこととすっかり自然にお任せできるというなら話は簡単でしょう。ただそうはいかない。ウソはつけませんね。

「自然にお任せ」は全くのウソってのが私たち人間について自然のお決めになったこと。

運命論に従うなら、「自然にすっかりはお任せできない」ってのに従うしかありませんね。ついでに「それでもお任せしたくなっちゃう」ってのも含めておきますか。ファシスト的素養です。

アナーキズム自己3面説を推すのは、あまりにクソ真面目になり過ぎないってのもあります。

いいじゃないですか。たまにファシスト的素養が強めに出ちゃったって。

それが人間なんです。

無理はいけない。

特に世の中を必要以上に拗らせてしまうような無理は。

率直さって大事ですよ。

一説には、複雑な事象を説明するには複雑な理論が必要、とも言われます。

でも、「注意すれば私たちはファシストにはならない」とかってウソじゃないですか。

そんな真っ赤なウソを土台にして理論構築していったら、絶対無理がきますよね。論理的には整合的でも、現実とかけ離れ過ぎてて全く役に立たないばかりか、害悪さえ及ぼす。一番の害悪は何と言っても、そういう役立たずイリュージョンに住み続けて生き続ける人間がエラソーに「間違っていない」と勘違いし続けること。そのパワーに現実が歪められまくる。

普通に生きているだけでより簡便で普遍的な法則の方を望むんですから、ちょっと恵まれていたりすれば、その望みは幾倍にも膨れ上がります。

「ちょっと頑張って注意すればもっと普遍的なルールに、”みんなが”従えるはずだ」とか。

放っておけば、敢えて複雑な方を尊重しようなんてしない、できないんですよ。

そういう前提で”率直に”分析に向かわなきゃ、防げる災難だって防げやしない。

あれ?なんでこんなひどいことになっちまったんだ?ってね。そんなの繰り返すばかり。「それが人間だ」と言ってしまえば。。。それまでですが。。。

弱点を口に出すと、あたかもそれに甘えて言い訳にする。やる前から失敗の予告をするような感じもしないではない。

でも、頑張ったって克服できない性質ってあるのです。

そう率直に認識した方が善後策を適切に練ることができるでしょう。

とはいえ、非常に悩ましい問題ではあります。

「真面目に努力」して少しでも限界までの領域を広げようとすることは悪いことじゃありませんから。程度にさえ気を付ければ。

じゃあ。

それに向かって努力し続けても一向に問題にならない目標みたいなもんを設定すればいいんじゃないのか?と思ったわけです。

ファシスト万歳!です。

ではその共通目標をば。

「全宇宙の完全コピー作成」

普遍法則を求めるのも次に何が起こるのか?を知りたくなってしまうから。次に何かがあると勘づいてしまうから。

どうしても知りたいなら、全宇宙の完璧なコピーを作れるようになればいい。普遍的なルール(例:方程式一つで全部説明とか)ってのは簡便性の観点からは理想だけれども、全宇宙のありとあらゆるものの振舞いが予め分からないなら、結局中途半端なところで、やれ何が足りない、何が間違っているとか文句言い合って終わるのがオチ。

量子一粒漏らさず振舞いをコピーできるような方法を見つける。

私たち人間の心の動きも一つ漏らさず。そのためには、私たち人間を構成する物質の何から何までを正確に把握すること。完全コピーできるほどに。

既に一部科学で不十分ながら取り組まれていることです。全宇宙完全コピーのようなヴィジョンはないでしょうが。

この目標(ヴィジョン)は何も一般的に科学と呼ばれている営みの専売特許ではありません。

音楽、絵画、彫刻、ヴァーチャルリアリティ、文学、詩、etc.いわゆる芸術一般が目指しているところも、全宇宙完全コピーの試みと見ることができます。科学との違いとしては、過去や未来のことではなくて、次々と過ぎゆく現在、と考えると理解しやすいかもしれません。「その唯一無二の一瞬をカタチにしたい。」

想像力を駆使する私たち人間ですが、材料になるものはこの世に存在する何かであることはほぼ間違いありません。

知識というものは、私たち人間がこの世の中に存在する仕方、という理解を提唱しているとおり、私たち人間とそれ以外のもの(宇宙)の関係(全宇宙)を知る手掛かりになりそうなものの全てが知識であるとも言えます。

科学的な手法では、「何がデータとなりうるか?」を選別することが通常の分析手続きとして行われますが、全宇宙完全コピープロジェクトにおいては、データになり得ないものはありません。人間が想像するという行為も含め、この世に存在するものは全てデータです。

どんなに頑張って注意したって全体性への渇望は完全にはなくならないわけですから、何ものも切り捨てない気持ちで、全てを包括するホンモノの全体性を目指せばいい。どうしても「真面目に努力」が正しいとしか信じられないなら、その信条に従って、完璧を目指すべきでしょう。

間違っても、努力できないのは誰か、何かのせいとか言っちゃあいけませんね。そんなことを言うなら「真面目に努力」なんて止めちまえばいいんですよ。

大丈夫。心配は要りません。

誰一人として真面目に努力なんてやってもいないし、やり切った者など一人もいやしないのですから。

アナーキズムも自己3面説も、肥大しがちな「自分が正しくいられる領域」について、その肥大っぷりを自ら小ばかにして笑い飛ばせるぐらいの余裕を私たちに与えてくれるものです。

アポロジェティックでもなく、率直に自らの弱点を理解する。そりゃ多少(ひどく?)アイロニックには聞こえるでしょうが、半端もんが全体性を目指すような格好悪い存在だからさ。私たち。仕方ないでしょう。

「(普遍法則を念頭に)前向きに進歩を目指す」ことを完全には捨て切れないなら、「全宇宙完全コピー」ぐらい言わなきゃダメなんじゃないか?って私は考えるわけです。冗談とも真剣ともとれる領域を残しておくために。

信じる/疑う

神が死んで久しいので、まあ、当然のことなのかもしれませんが。。。

あまりにも理解が根本のところで間違っている文章に出くわしたので。。。コメントを残すことにした。

 

宗教信仰のお話では原則”疑う”はない。

葛藤はあるだろう。

内心では信じたいのに行いが伴わない、とかね。

疑うならば入信しなければいいこと。

入信後疑うことは?

あるでしょう。

で?

なんで疑いのある宗教が気になるんでしょう?

疑っているんならかかずらわらなければよいのでは???

気になっているということは、葛藤の方でしょ?信じたいけどうまくいかない。。。何とかするのは自分の方で、宗教の方じゃない。

信仰心ってのはそういうものでしょ?

疑いのある信仰心って???

論理的に矛盾。

どころか。。。

そんな状態では救済とかは全く無縁。

そもそも救済なんてものは求めていない、ということ。

つまり、宗教信仰のお話ではないのだ。救済を求めない宗教なんて。。。

 

宗教的信仰は、日常的に、詐欺に遭うかどうか?などへの備えとして人を疑う/信じるという話とはいっしょくたにはできない。敢えて同次元で考えたい!つまり、日々出会う人々をあたかも神様の化身であるかのようにとらえ、原則信じようとするところから始める。そんな方法を排除するものではありませんが。。。

信じる、疑ういずれにしても、それによって何か便益や損害があるかどうかを問題にし過ぎるのだろう。

宗教の救済というのは便益??

便益とは違うと思う。

信じるという行為自体が救済。信じることができているということに対する感謝の念すらある。

「信じたげるからいいもんちょーだい」ではないのだ。信仰心というものは。

ましてや信仰の対象なるものは、「信じなきゃ何もくれないなんてケチ」とか言う相手でもない。

確かに「信じないなら救わない」なんて口ぶりの宗教もあるのだろう。そしてそういう宗教は偽物だ。

でもね。

信じるって。。。

本人にしか分からないニュアンスなんよね。

ちらっと疑ったりするなんて日常茶飯事だろうし。

本気で信じているかどうか?なんてのは誰にも分からない。けれども神さまには見えているだろうなーと敢えて思う(信じる)。。。

というぐらいにかなり重層的なのだ。

薄っぺらい二項対立ではない。

対して、疑う方はイージーよね。。。だから多くの人が世俗に生きる。宗教なんて頼らない。生きていける見通しが立つんだもの。。それなりに。。なんで敢えて「信じているか、信じていないか」を自分と神様に問うような面倒なことする??

日々の行いの場面では、どんなものも結論付けずにおけばいいわけだから超カンタン♪リスク管理という名の保身であり、多様な価値観や可能性に対する寛容さであり、、何でもアリ。

世俗で許される信じる・疑うの適当な出し入れ。

結論めいたことを何一つ言わず、それを”弱さ”と言わないで、適当な言い訳をつけて自己正当化を図る。

何でそんなことをするのか?というと、結局救いでも何でもいいから、便益が欲しいのよね。信じたいのはそれ。何かやったらご褒美ちょーだい。それは当然の権利。。。つまり、損得を超えた何かを祈るほどの期待なんて微塵もない。

偽宗教を揶揄することもカンタンだろう。

でも本当の宗教の意味、信仰の意味は語れない。

だってそんなもんかけらも思いつかない世界に生きているんだから。。お祈りする気持ち、お祈りの意味が理解できない。。。

知らないこと、いや、普段から別に信じるとかなんとかはそれほど大しておっきな問題ではないって生き方をしているんだからさ。。。そういう興味のないことについて語る必要はないってことね。

ご興味のある損得のお話だけしていればいいんじゃないでしょうか?

あー。そうしてるんだね。。実際。。。ある意味”宗教的”だね。。損得信仰。。。否定神。。。

やっぱ人間って当たりの可能性が高いと祈らないよね。当たり前だけど。。。祈るよりも探るよね。。より高い可能性。

そりゃ無理だ。。って感じたら祈るだろう。無駄にあがくよりも。。。(まあ祈りもあがきといえばあがきなのだが。。。)

「否定神」を疑ったり否定したりするのが難しいのは、でも、純粋に当たりの可能性の多寡の話だけではない感じ。

一旦信じ始めると抜け出られない。

麻薬だね。

否定する時の(似非)全能感とかね。。。

敢えて否定するのは、こちら側が真の側だと確信できているからなんよね。

本来その真の側にいられる安心、つまりは肯定の感覚をまず愛でる、慈しむ(肯定を肯定する)ところから始めるべきなんだけれども、どうにも否定の杖を振ってみないことにはその威力が実感できないものらしい。。。で。やってみちゃうと。。。実際威力は満点なので気持ちいい。。。やっぱり自分は真の側だったんだという安心感に加え、否定された相手がぎゃふんと言わされている様子とか。。。そういった心的便益のみならず、景気良かったりすると、否定杖振るえるってだけで職にありつけたりもするからな~。

もしも状況が不利になってきて、自分が真の側に立って、否定の杖を振るえることがなくなってきても、振るった時の快感は忘れられない。。。

他方、そんな大した恩恵も及ぼさない(否定の杖を振るえる機会をあんまりもたらしてくれない)ものを、今さら愛で慈しむなんて気持ちは湧かない。。。でもなんとなくしがみつき続ける。。。他人が否定杖振るってるのに喝采浴びせて慰めにしたりして。。。というか、その他の方法を思いつけないのよね。。。覚悟を決めて何かを信じ、賭けてみるなんて気持ちが分からないし、起こらない。

note.mu

 

どーせ否定されるんでしょ(ならおいら否定する側でいいや)。。。

肯定の感覚って耳障りはよさげだけど、、、詰めて考えてみるとしんどいことばっかだもんね。。。どんどん自らに重しを課していく感じ。。。「え?それ肯定できてますか??ホント???」みたいな。。。

そげに疑い続けなければならんのなら、、、端っから信じなきゃ(肯定なんてしなきゃ)いいんじゃん?って思っても不思議ではない。否定神信者も周りにわんさかいるような状況じゃあ尚更ね。。。

かくして、真だの偽だの、それは自分自身のためなのか?社会全般のためなのか?まどろっこしいことはさておき、何でもかんでもともかく「え?そんなもん信じてんの?オタク??」という態度(チャンスがあれば即否定に入れる態勢)がキープできるように、という超非生産的な営みに、痛ましいほどに血道をあげる。。。恐るべし。否定神の呪縛。。

抜け出るためのポイントかぁ~。難しいな~。

人生は一度きり。とか。

想像上の時空は無限だけど、現実は一瞬一瞬。同じことの繰り返しに見えても、同じもんは二つとないよ。とか。。

言われてもね~。イマイチでしょ?

難しいんだけれども。。。

それでもやっぱり何かいやぁ~な感じがした時に、まず外を見渡さないで、自分自身の感覚について考えるところから始めましょう、と。

そういう習慣がつかないと。。。

何も変わらない。

それは確信をもって言える。

希望は私たち一人一人の中にある。

そんな肯定締めでよろしいでしょうか???

だめだろな。。。これじゃ。。。

ま。でもさ。いいほうがいいから。人間。だからこそ肯定の匂いも嗅ぎ分けられる。身を投げ出してまで信じようとするかどうかは別としても。。

やっぱり希望はあるんだよ。

一人一人の中に。。

数学者が分析するカベ

カベをとりあえず設定した上で、こちら側と向こう側とをともに平穏な状態に保つ。カベをすり抜けてしまう心が猜疑心など否定的なもので満たされないように。

(先日ニュースになったABC予想証明の望月新一先生のブログより意訳。)

 

カベなんていらねー!

よりは非常に好感が持てる。

勿論複雑で難しくはなるのですが。。。

 

カベを考慮に入れたより【やさしい社会】的なアイデアではありますが、底流する思いは私には理解しにくいもののようです。

 

まあたしかに英語とか英米の文化って長らく下っ端に置かれたことがないし、ネイティヴは、善意ではあっても、図らずも他者を下等なものと見下すような態度になりがちなのかもしれない。

その背景には、彼らには彼らなりの苦労もあるようで。。。

************

(背景)

カベはある。

けれど。

多分、彼らがカベに「飢えている」というのは違うと思う。「ある」んだから「飢える」必要はない。

むしろ、「ない」という荒唐無稽を真に受けて苦しんでいるイメージ。

カベはあるのに素直に「ある」って言えないように仕向けられている。

幼年期の相当早い時期から「道徳的な葛藤なんてこうすりゃ解決できる」「さっさと解決しろ」「いつまでも拘るやつはうすのろ」みたいな感じで”カベの曖昧性”がすっかり忘れ去られているイメージ。カベはあって、しかも、それは鉄壁な岩盤のようなものではなく(ではあっても)、すり抜けてしまう何かがある、というようなものなのさ。

そんなカベの実態について全く知らない(カベはきっちりかっちり仕切って、あっちとこっちとを完全遮蔽するものと思い込んでいる)親が子を育てるわけだから、もはや世の中からは、道徳的葛藤みたいな曖昧なものがほぼ存在しないことになっている。「そんな曖昧なことに拘ってグズグズしてるとおカネも稼げなくって死ぬよ」って感じ???

************

まあそんなわけなので、私の感覚では、カベ自体よりも、あっちでもこっちでもいいから生きている者同士、よしなにやれる方法に拘りたいですね。

カベはある。

そう前提する方がより現実的。

それを理念や気合だけで取っ払えると思い込み過ぎるのは危険だ。生身の人間のキャパを超える。矛盾は現実の問題として現れる。

問題はカベをどうとらえるか?

そもそも存在しているカベ(肌の色の違いとか)が、「乗り越えられて当然でしょ?」ってことで実質カベとして意識されないよう仕込まれているから、却って悪意なんてないのに差別化が起きてしまう。で。悪意がないから図らずも暴虐なものにもなりやすい。

かといってカベを意識させようとすると各々勝手な解釈が始まる。ポリコレ、アイデンティティ・ポリティクス。。。

数学はよいメタファーにはなり得ても(そんなことまで分析できるものなのか!という驚きも含め)、実際的な解決を提示してくれるとは思えない。

数学のモデルは現実から出てきていても、これから現実になるものには当てはまらないこともある。特に私たちにとっては常に起こる現実が先だ。数学モデルなんて引っ張ってきている暇はない。

現実に起きたことと言ったって、全部を知るなんてできていないわけで、だからこそ数学も、たとえ今この瞬間に全てが停止したとしたって、おそらく半永久的に続けられることだろう。

これから起きることには当てはまらない可能性があるとしても、既に起きたことをより正確に知ることには意味がある。実際数学の正確性はこれから起きることだってかなり正確に予測できたりもする。外れると言ったって確率でいえばそんなには外れない。

とはいえ。一人、一つのモデルで全てをケアすることはできない。

一人一人の人生は分からないことだらけだ。

言葉は大事。

間違いは起こすから。どんなに気を付けていたって。

遅れてもいい。

納得いくように語り直す。

なんで?そんなことしたって間違いは消えないじゃん?

それでもいいんです。

人間同士が信用できなくなってしまうよりは。

納得いかないまま死んでしまったら、その人自身も不幸だけど、周りにも悪い影響が及ぶ。

結局死んじゃった人の真実が分からないままになってしまうから。

勿論必死で真実を残したつもりでも、そのようには読んでくれないことだってある。

でもね。

真実を残そうとするのはそれを読んでもらうためじゃないの。

残された人々に、お互い信用し合って生きていってもらうため。

どういう理屈???

真実の言葉は時間と空間を作り出す。

間違いったってこの世の終わりではない。

間違ったのは何?どこ?原因は?受けた罰は大きかった?それは自分自身が?もしくは周りの人々が?

死んだ者の骨を拾ってあげる心境。

生きている私たちはきっと間違いを起こし続ける。

でも、既に死んでしまった者の無念を心に留めることができるなら、生きている者の言葉には真実が宿る。

自らの過ちに無頓着にならず、かつ、言い訳(チープなウソ)では済まさない気持ち。

既に起こったことは、言い訳なんてしている暇はなくて、一体何がどういう風にして何故起こったのか?より正確に知ろうとするしかない。それができないということは、どんなに富を手にして、立派な病室で安らかに看取られようが、幸せを手にしたとはいえない。

「こうすりゃ逃げ切れるのか。。。」って方法(例:沢山お金稼いで立派な病院・施設などで終末を迎える)は、誰にでもは無理だよね。。。

みんながみんなアクセスできるわけではない”いいもん”ってさ。。。人間同士で疑心暗鬼や妬み嫉みが増してしまう。

死んだ人のことぐらい信用してあげられないんじゃさ(例:えーのー。金持ちは満足気に死んでいけて。。。とか)、生きてる人のこと、ちょっとでも信用するなんてまず無理よ。

で。それはそれでいい。

だって話し合えるもの。生きてる者同士であれば。実際生きてる人って何言ってくるか分かったもんじゃないしね。

「死んじゃった人のことを信用する」とは、死んじゃった人のあれこれを誉めそやすとか、本当は色々忘れてて憶えてないから、割と真面目に検証したりして、立派だった部分を確かめるとかではない。自分自身の過去を分かる範囲で見直してみるということ。「ゲゲっ!ヒトって死んじゃうんだ!」ってことでね。。。「うー。今ここで死んじゃったらどうなるんだろ?」みたいな感じで。

そうすることによって、死んじゃった人たちが道途上で知り切れなかったことがあったに違いないと思い付く。ほんでもってそれ(いわゆる遺志)を引き受けるということ。

そうすれば、自分が今ここでぽっくり死んじゃったとしても、きっとどこかの誰かが骨は拾ってくれる。んじゃないかなー?と信じようとすることぐらいはできるようになる。

生きている者同士面と向かって信用し合えるとか???夢物語さ。この点では望月先生のお気持ちの欠片ぐらいは理解できる。ともかくカベはあって、難しいのは、私たちの思念は、カベをすり抜ける、というところなのだ。

信用し合えるなんて夢と思うからこそ、丁寧に向かう。

そうしないと分かり合えないから、とかいう甘っちょろいことではなくて、骨を拾い、そして、拾ってもらうため。

人間同士の信用なんて脆いもんなんだから、そのための伏線はうっすらとでも地道に繋ぎ続けていかなければならない。

現世利益(例:生きている者同士の相互信用とか)のみが私たちの生きている意味ではないでしょう。

************

(小洒落た分析は嫌い)

サイバネティックスとか。。擬とか。。。面白いけれど所詮小道具でしょ。

「つもり」とか「リアル」とか。。。

そんなのがごっちゃなのなんて今初めて分かったことではない。

それにどう向かえるか?が難しい。

あんたにそのつもりがなくたって他の人はそのつもりで読むだろうし、あんただって他人のつもりなんて関係なしに勝手につもりを読む。

************

現世利益だけが生きている意味みたいないい加減な生き方では、世代を超えた信頼関係の醸成なんて無理。

世代を超えた信頼関係なんて興味ないし全く幸せでもなんでもないし目指したくもない???

そうですか。

じゃあ何が幸せ???

「いい仲間に恵まれた!ありがとう!」って自分だけ満足顔で死んじゃって、周りのみんながみんなして「良い人だったね(以下省略)」。。。

そんなのが幸せなんだ。

一人でも二人でもいいから「ありがとうございました。ゆっくり休んでください。あとは自分らが頑張ります。」ぐらいのことを思って欲しいなら、生前出会う人は誰一人として小馬鹿にはできない。注意不足で見逃したり、誤解したりすることは多々あるとしてもね。

私なんて、ちょろっと会っただけの人だって、超ぞんざいな扱いを受ければ絶対に忘れない。何故って?そんな風になりたくないから。なりたくないと思うならより正確にそういう人間のことを知らなければならない。怒っている場合じゃあない。結構怒るけど。。。ある意味死んじゃった人と同じ。もう二度と会うこともないんだし。ただただ何がどうなったらちょろっと会うだけの人間のことをよく知りもしないのに、あからさまな侮蔑的態度で向かって行って平気でいられるようになるのだろう?きっとわけがあるにちがいない。そういうことを考える。分からなければ勉強もする。ここまでいけばもはや愛といってもいいだろうと思っている。

軽はずみに愚かしい間違いを起こし続けるのが私たち人間。

そんな人間の、間違いをも含めた真実は、十分引き受ける価値のあることだ。

忘れた方が楽?

そりゃそうでしょ。

論理的に物事を分析するというのは生まれ持っての能力(頭が働く、だけでなくて、体力的なものも含む)が求められるし、できない人はさっさと忘れるべき。くれぐれも恨み辛みを持ち越さないようにね。「忘れた忘れた」って言うばっかりで怨念に満ち満ちている人って結構いるからね。。。

怨念持ち続けられる人なら、私は論理分析をとりあえずはおススメしますけども。だって体力はありそうだからさ。

【やさしい社会】の紹介


【やさしい社会】の目的

以前語りの練習をしなければ、ということを書きました。

 「書く」を重視する気持ちは変わらないのですが、いかんせん「語り」がまどろっこしすぎると書いても伝わりにくい。というかそもそも読んでもらえない。

やはり読んでいて「読み続けたいな」と思ってもらえるためにはリーダー(Reader)を導く気持ちが大切で、そのためには「語り」は無視できないのではないか?と。

とはいえ「語り」って何?

というのが具体的にイメージできているわけでもなく。。。

五里霧中ながらも、とりあえず考えていることを喋ってみることにしました。

既に約4ヵ月。

自分で何度も聞き直しているのですが、まだとても分かりにくい。。。

なのですが、このブログで書いていた文章よりは多少なりともマシなのかな?と感じています。やはり「話す」となるとあまりに複雑な言い回しなどは自然と避けられるようです。

noteで文章は書き続けているのですが、多少は好影響あるのかな?と考えています。

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