現実が残酷なわけ
「いい方がいい」
この漠然とした感覚。
なんだか駄々っ子のようですね。
でも、この一見子供じみた感覚は、「子供じみている」ということだけで却下してしまってはいけないのではないか?と考えています。
あまりに漠然としすぎてますので、ちょっと強引にカタチの次元へ引きずり出してみます。
現実って厳しいですよね?
おカネがない、仕事が終わらない、頑張っているはずなのに成績が上がらない、愛している人と心が通じ合わない、知らないおじさんに突き飛ばされても文句も言えない、、。
これらも勿論厳しい現実なのですが、より根源的に考えると、私たちは生きている以上(死んだ後でもかな??)自分の姿を他人の目に晒さないわけにはいきません。
晒す以上、自分の本心とは関係ないところで、「ははーん」とか「ふふーん」とか思われてしまうのを避けることもできません。
まあそれはお互い様なのですから、あまり一人で抱え込んじゃっても仕方ありません。
とはいえ、常に、放っておいてくれよ、とも言えない状況にあるというのはしんどいものです。
であるからして、人々は様々な技法を駆使してなるべくしんどくないように済ませます。
私たちが日々目にしていることや言葉ってそういうもんなんじゃないか?って見てみると、ひょっとすると一人一人の「いい方がいい」に近づけるような気がしませんか?
悩みが誰にでもあることぐらいならわりと簡単に想像はつきます。
でも、その悩みのようなものが、「いい方がいい」とかその曖昧さに関連付けられるかどうか?は分かりません。ましてやその「いい方がいい」がどれほど大切なものであるか?なんてことにはほぼ気付かれることもないでしょう。
そこで、行動や言葉などで、自身の姿を他人の目に晒す、というのは必ず「いい方/悪い方」の判断がなされてしまっているのでは?と考えてみます。
現代なら、他人に見えやすいモノ、分かりやすいカタチなら「いい方」。
昔は「秘すれば花」という時代もありました。
人は都度そうした「いい方」を感じ、判断することができるのではないでしょうか?
当然他者の目に晒されての評価とは必ずしも一致はしません。
そもそも本人ですら気付いてないことの方が多いでしょう。
気付いてないのに意味が乗る、乗せられる。
この厳しさを共有する。
特に”いいカタチ”を強要される現代です。
「はいはい。分かってますよ。どーせ。。。」
ってなってしまうのも無理のないことでしょう。
でも、存在を否定することはできません。
ないことにはできないのです。
「いい方がいい」。
「いい」っていうのは、善悪ではなくて、ただ「ある」こと。「ある」以上は否定よりも肯定の方がエネルギーは少なくて済む。そう実感できればかなり状況は良くならないでしょうか?
科学的実証的方法は否定的であるともいわれます。論理学上の真であることを追求するために、ありとあらゆる偽の可能性を想定し、これを排そうとするためです。
でもその方法により確認された真がなければ、現代が求めてくる”いいカタチ”なんてただの絵空事に終わってしまいます(既にそうなりつつある?)。
とはいえ、”いいカタチ”というものは、決して科学的実証的手法で確定された真そのものであるというわけではないでしょう。そもそも前提が命綱の手法です。現実世界のあれこれを全て包含なんてできません。
つまり、”いいカタチ”なるもの、個々人の曖昧な「いい方がいい」に駆動されたカタチだからこそ”いい”と言えるということ。よって、科学的実証的手法は、曖昧な「いい方がいい」にカタチを与える。そのためだけに重要だということなのではないでしょうか?
現代を強烈なパワーで動かしている、けれども、どうも最近信用が下がりつつあるように見える科学的実証的手法。
これについて今一度詳しく見てみる必要がありそうです。