いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

言論の自由

憲法とかで保証されている権利や義務のお話も大事ではありますが、言葉って案外自由には使わせてもらえないものです。

文法をはじめとする規則あり、マナー上使わない方がいい単語や言い回しがあったり、時代が変われば一般的にイメージされる意味が微妙に(場合によってはドラスティックに)変わっちゃったりもします。

特にマナーや時の流れの中で変わる意味などは、何か決まった法則があって言葉が制限を受ける、というよりも、勘といいますか、雰囲気を読むといいますか、とある現場に置かれた人がそれぞれどんな人といるか?なども観察したりしながら、協力し合うようなイメージで、ルールらしいものを決めていっている感じがします。

ですので、当然、居合わせた人同士の力関係、社会的地位の違いなどの影響も受けるでしょう。

また、特定の国や地域で効力のある法制度の他、国際的な取り決め、大手主要メディアが報じるニュースの論調なんてものも、面と向かってやり取りしている者たちに直接は関係がなかったとしても、双方の話すことに影響を及ぼします。何故なら、私たちは個々に、様々な外部情報なども参照しつつ、自らの考えや振る舞い方を決めていて、当然話すことや話し方なんかも影響されざるを得ないからです。

国とか国際社会とかメディアなんてものからの影響を考えるに、私たち一人一人って到底対抗できないぐらい貧弱だよなーと感じます。とはいえ、国などのおっきなパワーを持つ何者かが真空状態からぽっと出てきてうごめき続けているわけもなく、私たち一人一人も多かれ少なかれ一枚噛んでいるはずです。この無力貧弱な一人一人と、巨大なパワーを発揮する何者かとの関係。どのように理解すればいいのでしょうか?

吉田健一さんという方がいらっしゃって、

戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

と仰られていて(詳しくはこちらをどうぞ)、ことあるごとに思い出しています。

難しいのは執着なのかなーとなんとなく感じます。身の回りで日々起きるモノコトを慈しみ愛でる気持ちで大切にしよう、というのは「いいことだ」と直感的に思えるのですが、どうしても周りが気になるといいますか、おっきな社会の流れを見るに、「それでどーなる?」という目に見える変化・結果を求める気持ちは否定できません。

だからこその「美しく[する]」なのでしょう。

自分自身の感性で決める。そうして決めたとすれば、結果云々に関係なく、執着し続けることができやすくなるのではないか?

「美しく」ですから、独りよがりでもダメなはず。やっぱり他者の目、しかもわりと広い範囲の人にも「美しい」って感じてもらいたいじゃないですか。押し付けるのではなくて。。。(「美しさ」って押し付けられるような性質のものでもない。だからこそ選択された言葉なのかもしれません。)

中々難しそうですよね。「美しく[する]」のって。。。

自身の気持ち・感性に誠実であろうとすること 。

他者からの視線はどうか?

それらをかわるがわる見ることにより生まれるのであろう、他者への思い。「彼女・彼らにも美しいものがあるんだろーなー」。

それで巨大なパワーに対抗できるのか?

まだ心許ないですが、執着できるよう努めつつ、さらに容易かつ効果的に執着できるような方策を明らかにしていきたいところです。