共感と交換
共感というのは、他者が感じているであろうことを、あたかも自分も感じているかのように、自他の感覚を重ね合わせようとすること。
交換というのは、交換の当事者間で「等価値である」と合意されたモノについて、その所有者(帰属先)が入れ替わること。サービス(役務)が関わる場合は、役務が生み出す効用(モノである場合もあり)について、交換当事者間で、「役務と効用とが等価値であると合意されている」と考える。
交換の方がより強いけれど、共感の方も、当事者同士は原則として対等である、或は、平等であることを目指すものと想定されている。
交換は、交換されるモノ/サービス間の等価値に加え、どちらかが応じなければ成立しないので、どちらにも「応じない権利」はあるという意味で対等な立場にある者同士が想定されている。
共感も、する方される方双方の感じ方が厳密に同一であることはないけれど、共感というからには、まあまあ似通った感覚のことについてお互いに理解し合おうという意思がある(べき)はず、というような平等観・対等な立場尊重観がある。
しかし、果たして共感も交換も平等・対等な者同士の間で起こるものと考えてよいだろうか?
「常に」ということはまずないだろうし、実は結構格差のある者同士という場合は多い。雇用者-被雇用者、販売者-消費者、現に痛がっている人-共感する人。。。
まあそもそも何もかも満遍なく均等に行き渡っているなら、交換の必要もほぼないわけだし、共感どころか、、、感情もあんまり湧きあがらないんじゃあないだろうか。
つまり現実はいつだってアンバランス。
だから大事なのはあんまりひどく偏らないようにすること。
完全平等を目指す気持ちは尊いけれど、そんな非現実的な公式に知力精力を投入するより、どんな状態だったらより多くの人にとって不満が少なく、結果少しでも心安くいられるか?を丁寧に見なければいけないのではないだろうか?
とするならば、ケース・バイ・ケースの対応になってしまうのは避けられないだろうし、広く通用する基本原理っぽいものを探りつつも、個々のケースに当たる実践面のスキルも練っていかなければならないはず。
私が個々の人の考えるプロセスや方法に興味があるのは、「一体どういう状態であればわりと進んで他者のために自分のリソースを差し出そうとしたくなるか?」を知りたい、ということがあります。ケース・バイ・ケースの対応とはいえ、それが分かれば、案外都度行われる交渉とかが、より穏便に進みやすくなるのでは?と考えているのです。
沢山持っているはずなのに、足りてない人がいると知りつつ、もっともっと多くを求めてしまう。ひどいときには、無駄に使って捨ててしまってもいる。
そういうことは日常茶飯事。
だから完全に撲滅することなんてできないだろうけれど、ちょっとした気付きによって、例えば、必要としている人のまさに目の前で無駄遣いして、じとーっと見られたらムカついて蹴り飛ばす、みたいな酷いことをなくすことはできるんじゃあないだろうか?
まあそのような極端な事例に巻き込まれることは稀ではありますが、「どーするかなー?」ぐらいの気分で準備しておくのって意外に大事では?なんてことを考えています。