いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

分かるか分からないか1

あまりにも当たり前すぎるかもしれませんが、私たちは世の中のモノコトを名前で呼んだり、モノの性質や動く様子、コトのいきさつなどを言葉にして理解します。算数の図形のように線を引いたり、数式で表したりもしますが、日常の様々な用事を済ませたりするにあたっては、圧倒的に言葉という道具を駆使しています。

言葉って一体どこからやってきたのでしょうか?

勿論何でもかんでも分かっていることを言葉にしたりしませんけど、「感じたこと」「考えていること」って何?って注意を払うと、それらは大体言葉で表されますね。

でもまさか、体のどこかに痛みが走った時に、「痛いっ」て言葉が信号になって、痛みの場所から神経を通って脳みそに至り、それが口から出てくるなんてことはありません。

黄色いタンポポが目の前にあるのが分かっているのは、目の前の植物らしい物体から「黄色いタンポポ」っていう信号が飛んできているからでもありません。

ということは、主に脳みそを使って、光とか体で感知された信号とかが、言葉に変換されているはずです。

言語学者さんや脳科学者さんたちは日夜そのへんの過程を研究されていることでしょう。

でも私は私たちが日常的に駆使している知識とか技法とかに興味がありますので、そちら方面への深入りはいたしません。

「そんな乱暴なことってあり?」と思われるかもしれませんが、私は、私たちは日々言葉のようなもので様々なモノコトを感知して理解していると考えています。

言葉のようなものって?

ほぼ無限に受け続けているであろう様々な刺激を、一つ一つバラバラに処理しているのではなくて、ある程度のデータがかたまって動くものを単位にして、それらの比較参照を行っている感じです。

そのどの辺が言葉のようなのか?というと、ある程度のデータがかたまって動く、その様子を単位としてキャプチャーするということは、データが時系列に順序だって並ぶ、と想定しています。言葉にも語順や単語、文という順序のある程度決まった単位がありますよね。なので、言葉のようなもの、と私は考えているのです。

全く厳密性はありません。ただそう考えた方が色々といいことがあるのです。

私たちが日常感じたり考えたりすることってそんなに厳密じゃありませんよね?

分かり切ったことと思っていても、いざ説明しようとすると詰まってしまったり。

でも、厳密じゃないってことが致命的な障害になっているわけでもないじゃないですか?(問題も起こりますが、厳密に分かるまで全く身動きが取れないなんてことはないですよね?)

ということで、かなり乱暴に思える「言葉のようなもの」を推論ツールとして活用することによって、私たちが日々駆使しているであろう推論の理屈が説明できるのではないか?というのがアイデアです。簡単に言うと最初っから厳密性にこだわり過ぎない、というのがミソです。

かなり抽象的で分かりにくく、かつ、私独自のアイデアの話でしたので、以下「推論」について簡単に説明して、解釈のプロセスについての詳細は次回以降にさせていただきたいと思います。

比喩的推論について

私たちは普段厳密性にそれほどこだわっていない 、と申し上げた通り、基本的には推測でモノコトは扱われます。仮定と言ってもいいかもしれません。先ほどまで説明させていただいた「言葉のようなもの」を、この推測や仮定を組み上げるプロセスに、どのように適用できるのでしょうか?

時系列の順序に並んだ一連のデータ同士を比較参照すると、推論が捗るのです。

何故かといいますと、データを一つずつ照合しようとすれば、結果は「当たりか外れ」、「同じか違う」など二者択一に限られてしまうのに対し、お互い複数のデータを含んでいて、順序がある程度決まっていると、パターンの照合ができるのです。特にデータの種類が限定されていれば。実際神経細胞が扱うデータ(情報伝達のために利用される化学物質)は無限に種類があるわけではありません。

パターン照合というのは、「似ているかどうか?」といった程度にアバウトですが、そのアバウトさが故に、より複雑な情報が扱えるのです。

「言葉のようなもの」を扱っていると考えていますので、言葉を比喩的に使わせていただきますと、石と角がほぼ同じ道具に使われたり、動物の大きさとか動きの速さ(遅さ)からリスクを察知したり、雲の色や形から気候の変化を予測したり、見たこともない巨木に厳かなる感情を持ったり、リンゴとミカンが果物と分類できるんじゃないか?とか、、、。単純な照合に見えて、ちょっとしたズレや違いなどまでもが新たなパターンとして使えるようになる(リソースになる)感じです。

どうでしょう?

科学全盛の現代に育った私たちとしては、厳密な分析能力であるとか、論理の整合性であるとかが人間の強みのような気もしてしまいがちですが、実はよく分かんなくても進む、っていうアバウトさといいますか、無謀といってもいいぐらいの勇敢さなどこそが強みなんではないか?なんて思えませんか?

当然強みなばかりでは済まないのですが、そのあたりも次回触れられればと思います。

善悪のかたまり

常識ってフツーの人々のアートなんじゃないか?って気がしています。

気付きの時点で「善」「悪」の区別が含まれていると言いましたが、実は気付かないでとっている行動にだって含まれている。ただ、気付いていない以上、日常生活に活かすことができる知恵、という観点からはちょっと範囲外かなーと。

とはいえ、自分の、ではなくて、他の人の行動(動く様子)を見て、いろいろと解釈してしまうのは避けられないことなので、「そーいうもんかな?」って覚えておくといいと思います。

「そーいう」って?

目に映ったな、って自覚できるようなものは、「そこに現に表れている」という意味で、プラス、有無でいえば「有」の方、ネガポジだと「ポジ」の方、の意味(価値)がある、という感じです。

何が言いたいのかというと、目に入ってしまうようなモノ、コト(eventみたいな感じです)には、連綿と「有」がつながっているので、「無意味」みたいな存在否定につながる見方は慎めるようになるといいでしょう、ということです。

常識がフツーの人々のアートだ、というのも、こういった、相互関係が含まれているからかなー?と考えています。

相互関係というのは、動いている本人は気付いてなくても、動いているのが目に入っちゃった人はその人なりに様々意味を考えちゃう、というような関係。

決して平等ではないんですね。晒す方と見えちゃう方。

どれだけ注意していたとしても、全ての「勝手に解釈」は防げない。という意味では平等と言えますが。。。

常識なんてものがなんとなくでも多くの人々に共通に認識されるようになるのも、もとをただせば、私たちの間に避けがたく存在している非対称な関係にあるのです。「勝手に解釈」がともかく全ての人に許されている。

全ての人に許されているとはいっても、誰それさんのあれこれについて気付くか気付かないかは偶然でしかないし、それよりもさらに、声のデカさというか、「こういう風に見えちゃったんだったら見えたんだーい」って主張を押し通せるかどうかって、地位とか身分とかいろんな技能や知識の習熟度などにかなり大きく影響されちゃいます。まあそうして主張を通そうとする人、仕方ねーなーって妥協する人、そんなこととは露知らずなんとなくの雰囲気で振舞いを決めちゃっている人、いろいろあってみんなの常識が定まったり変わったりし続けるわけです。

自分の主張が通るならストレスだって少なく済むでしょうけど、常にどんなことについても、っていうのは独裁者にでもなれなければ無理。そんな多くの人にとってはファンタジーに過ぎない話ではなくても、日常で「独裁者」ってあだ名される人なんていっぱいいるでしょう?あなただって知らないだけかもしれない。そう呼ばれていることを。。。

「勝手に解釈」ってやっぱり恐ろしいですよねー。さらにそれはどうやったって防げないなんて。。。

まあそーゆーことなら、ネガじゃなくてポジを信じるしかないでしょう。

しかし、そんなに簡単なことなら苦労はしない。猜疑心は自らを苦しめるだけだなんて分かってはいても中々抱かずにおれるもんでもない。

一つ注目してみるといいのは、不完全で何かと紛争の種にもなってしまう常識ですが、全部結局プラスの連なりなんですよね。誰も何も一切したつもりがなくても、そこにいるだけで「解釈」されてしまう。勿論解釈は肯定的なものと否定的なものとがありますが、常識と認められている以上、残るものはプラス。特に常識なんてものがあるとさらに人々の動きが一定のパターンに収れんしやすくなるので、ますますプラスが増える。そうなると段々プラスの意味が意識されにくくなっていく、ということにもなるのですが、そうではあっても、不特定多数の人々がいろんな事情も踏まえ、プラスを選ぼうとはする、という傾向は否定できない。例えば、意識的に現状打破を狙って、マイナスをぶっこんでくるような人が現れたとしても、プラスにつながる何かがないと、多分勢いが続かない。どうやっていくか?は様々だけれど、ともかくかなり多くの人のプラスが集まらなければ、多くの人々が認識できるようなカタチが残せない。

実際常識が定まらないような混沌に巻き込まれるというのは相当生きにくいのだろうと思いますが、それでも基本的にはプラスを目指す。いや、目指さないという行き方はどんだけ意識で奮い立たせようとしても不可能なのです。

平和な日常を叶えるために大切な「信じる」ということと、それを困難にさせる猜疑心と。

究極的には不確定な部分は排除できないのですが、それでも「信じてみよう!」の方になるべく頻繁に舵が切れたらいいですよね。

そのための秘訣は、私たちは特に何をしているでもなくてもともかくプラスな存在で、そこは否定できないということ。それでもプラスをマイナス或はゼロと疑ってしまわざるを得ないそのワケ。これを知ることにあります。

 不意に見えちゃうものも解釈してしまう。その過程について次回は詳しく見ていきたいと思います

気づきから始まる

大人になると、いろんなことが見えてくる。特に現代を生きていれば、成長とともに強化されるのは理屈。小さな幼子が理屈をこね始めるのはなんだか見ていてほっこりする。でも、それも段々とうざくなったりもする。大人は理屈で考えるのに、子どもが理屈をこねるのは小憎らしい。はて?大人同士でもそんなことは案外しょっちゅうないか???

理屈で考えるというのは”大人のたしなみ”でもあるように、わりと制限がたくさんかかっている。その制限を無邪気に超えてこられると、笑える時もあれば、「なんで?自分だけ我慢してんの?」って腹が立ったりもする。

あれ?制限かかってるんだったら、かかってない状態ってものがどっかにあるのでは???

もしも人によって超えたり超えなかったり差があって、それがコンフリクトの種になるのなら、ようし、いっちょ夢の自然状態とやらを定めて、みんなそっから平等に始めようじゃないか!

まずはっきりしているのは、人間は自分が考える理屈に従って動いているわけではないし、理屈で考えるのは超苦手。

「考える」の理屈度がいかほど正確か?の問題もあるけど、そもそも「考える」に至るまでの過程に理屈がある。つまり、私たちが通常「理屈」と考えているものは、「考える」に当たっての制限。ルール。そういった制限やルールを時々超えてくる人がいるのには理屈がある。制限に従う必要性なんてものに全く気が付かなかったり、従わない方が快適ってことに気付いちゃうから。

道徳的にも倫理的にも、まだ必要性に気付いていない方がまし。

でもここで問題にしているのは、どんな人にも共通の理屈。平等な出発点。

そうです。全ては気付くか気付かないか

なんでこんな当たり前のことに気が付かないんでしょう!?

なんて言いたくなることはしょっちゅう。他人に対しても、そして、時に自分自身に対しても。

でも。。。

常識常識とか言い合って気まずくなることがあるように、「気付け!」ってしばきまわったところで気付かないときは気付かない。

気付いた者がリードしていかなければなりません。

何故なら、気付く方は「善」「悪」の区別を付けてしまっているから。

気付いていない方は文字通り無垢。法的用語でいうところの「善意」。

相手が立派な大人で、過去にはちゃんと気付いていたとしても、気付けなかったというからには無垢。無垢な人間をいきなりしばいちゃあいけません。

まずなすべきことは、気付いた方が、一体何を「善」で何を「悪」と感じているのか?と問うこと。分かり切ったことであっても。

お互い相反する「善」「悪」に気付いている時は?プロセスは同じです。お互いの「善」「悪」を振り返る。まあこちらの方は大人同士であれば咄嗟に議論のカタチをとったりするんでしょうけど、何気ない行動に現れる意見とか価値観の違いにも、背後に各々の思い描く「善」「悪」の区別がある、そしてそれはごくシンプルな気付きに既に含まれていること。知っておくことは、妥協点がどうしてもみつからない、なんて修羅場の時なんかに、理屈でいろいろと解決策をひねる際の一助にはなるのではないでしょうか?

世の中はもっと複雑だ!

そうです。

特に大人になれば社会的に常識とされていることに全く無頓着ではいられません。

常識などというものがどうやってできてくるのか?私たちはどうやって身に付けていくのか?次回はそのあたりのことについて考えてみたいと思います。