いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

気づきから始まる

大人になると、いろんなことが見えてくる。特に現代を生きていれば、成長とともに強化されるのは理屈。小さな幼子が理屈をこね始めるのはなんだか見ていてほっこりする。でも、それも段々とうざくなったりもする。大人は理屈で考えるのに、子どもが理屈をこねるのは小憎らしい。はて?大人同士でもそんなことは案外しょっちゅうないか???

理屈で考えるというのは”大人のたしなみ”でもあるように、わりと制限がたくさんかかっている。その制限を無邪気に超えてこられると、笑える時もあれば、「なんで?自分だけ我慢してんの?」って腹が立ったりもする。

あれ?制限かかってるんだったら、かかってない状態ってものがどっかにあるのでは???

もしも人によって超えたり超えなかったり差があって、それがコンフリクトの種になるのなら、ようし、いっちょ夢の自然状態とやらを定めて、みんなそっから平等に始めようじゃないか!

まずはっきりしているのは、人間は自分が考える理屈に従って動いているわけではないし、理屈で考えるのは超苦手。

「考える」の理屈度がいかほど正確か?の問題もあるけど、そもそも「考える」に至るまでの過程に理屈がある。つまり、私たちが通常「理屈」と考えているものは、「考える」に当たっての制限。ルール。そういった制限やルールを時々超えてくる人がいるのには理屈がある。制限に従う必要性なんてものに全く気が付かなかったり、従わない方が快適ってことに気付いちゃうから。

道徳的にも倫理的にも、まだ必要性に気付いていない方がまし。

でもここで問題にしているのは、どんな人にも共通の理屈。平等な出発点。

そうです。全ては気付くか気付かないか

なんでこんな当たり前のことに気が付かないんでしょう!?

なんて言いたくなることはしょっちゅう。他人に対しても、そして、時に自分自身に対しても。

でも。。。

常識常識とか言い合って気まずくなることがあるように、「気付け!」ってしばきまわったところで気付かないときは気付かない。

気付いた者がリードしていかなければなりません。

何故なら、気付く方は「善」「悪」の区別を付けてしまっているから。

気付いていない方は文字通り無垢。法的用語でいうところの「善意」。

相手が立派な大人で、過去にはちゃんと気付いていたとしても、気付けなかったというからには無垢。無垢な人間をいきなりしばいちゃあいけません。

まずなすべきことは、気付いた方が、一体何を「善」で何を「悪」と感じているのか?と問うこと。分かり切ったことであっても。

お互い相反する「善」「悪」に気付いている時は?プロセスは同じです。お互いの「善」「悪」を振り返る。まあこちらの方は大人同士であれば咄嗟に議論のカタチをとったりするんでしょうけど、何気ない行動に現れる意見とか価値観の違いにも、背後に各々の思い描く「善」「悪」の区別がある、そしてそれはごくシンプルな気付きに既に含まれていること。知っておくことは、妥協点がどうしてもみつからない、なんて修羅場の時なんかに、理屈でいろいろと解決策をひねる際の一助にはなるのではないでしょうか?

世の中はもっと複雑だ!

そうです。

特に大人になれば社会的に常識とされていることに全く無頓着ではいられません。

常識などというものがどうやってできてくるのか?私たちはどうやって身に付けていくのか?次回はそのあたりのことについて考えてみたいと思います。