いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

分けるより仕方ないけど

複雑な社会をなるべくまとまるようにマネージしようとすれば、部分部分に分けて管理しようとすることは避けられないでしょう。避けられないからこそ、一度全員で確認しておいた方がいいと思うのです。

本当は分けない方がいいんだということ。

そうすれば、各自一生懸命分けるための言い訳なんてしなくて済むんじゃないのか?

今はもう言い訳すらしない人ばかりになってしまったけれど、臆面もなく分け続けるのと、心の片隅に忸怩たる思いを抱えながら分けるのとでは全く出来上がる社会が違ってくると思うのです。

それをどう証明すればいいか?

これは私の取り組まなければならない課題の一つ。

それはさておき、まずは分けない方がいいんだということを確認してみます。

全てはつながっている

分けて考えマネージするやり方はうまくいってきた、といえるかどうかは疑わしいけれど、現在の定着ぶりから察するに、それほど深く考えなくても、いや、深く考えないで済むからこそ、採用されている。それぐらい自然なやり方なのだろう。でも同時に、分けたものの総計が全体にはならない、つまり、全体というのは部分部分を全部足したもの以上のものということが指摘され続けてもいる。

  • 何故全体を一旦分けて、それを足し直すと、元の全体に戻らないんだろう?
  • 何故それでも部分部分で管理する方法でそこそこうまくいっているのか?

一つ目の方は、分け目問題と私は呼んでいます。全体というのは無意味につながっているわけではないので、つながっている時に起きていることが、分けちゃったら起こらなくなるわけで、ということは、分けられた双方の側で起きることも、当然影響を受けてしまいます。なので、分けられたパーツ各々の動きは、つながっていた時のものと違うのは当たり前。そんなのつながっている時と、分けた時とを比較すれば十分修正できます。とはいえ、生身の人間の場合(本当は他の生き物でもモノでも同じことなんですが)、分けて管理されれば、そのメモリーが残りますし、一度分けてしまうと元には戻せないような場合、逆に分かれていなかった時代のメモリーが残ります。一人一人は、ブツブツ途切れ途切れの人生は送れません。一つながりの記憶というのは幻想にしか過ぎないとしても。

社会で暮らす人間を、性別とか年齢で分類してとあるサービスへのアクセス権を規定する、というような場合、別に体のどこかが切り分けられたりするわけではありませんが、性別で分けられれば、それなりの行動をするようになりますし、考え方だって影響をうけます。もはや「性別分けがなかったとしたら」なんて想像はできなくなるでしょう。性別といったような、多くの場合生まれてから死ぬまで変わらないぐらい安定的な属性なら、多少の例外には目をつむって、分けたことにしておいても、多くの人は困ることもないでしょう。でも、そんな比較的安定的な性別だって、一人の人間の一部でしかないし、ということは、どんな職業に就くか?どんな服を好むか?などその他あまたある要素と複合されれば、必ずしも安定的な自己イメージが保っていられるとは限りません。つまり、「男(女)だから。。。」でシンプルに生きていける場合もあれば、それがかえって障害になることだってあるのです。

部分部分で分けて見る、というのは、このように、社会全体という意味での全体にも、一個人としての全体にも影響を及ぼします。そんな影響の中でも、一旦分けることにしてしまうと、全体としてつながっていることで保持されている安定感というものに想像が及びにくくなってしまう、というのは、社会の安定、個人の心の安定ともに、安定を考える時、意外と重大な問題となるのではないでしょうか?

 

二つ目の疑問の方ですが、ヒントは既に示唆されています。

やたらめったら切り分けるわけではなくて、安定的なもの、広く社会を見渡して、それほど問題のない分け方、より多くの人々に利益になるような分け方が検討されている、というのが大きいと思います。

とはいえ、利益優先となると、本当に広く社会にとってなのか?疑わしいことも多いですし、何よりも安定的なものって、実はそれほどないし、あったとしても絶対安定なんてことはないというのが問題です。

あと、既成事実化、というのもあって、まあまあうまくいったら、多少の問題には目をつむって、まだ大丈夫なことにしておこうという傾向がありますね。なので、私たちのまあまあうまくいっているという感覚は過信しない方がいい。のですが、そうはいっても、、、という難しさはあります。

すると、じゃあ一体どこの誰がその分け方でいいっていったんだ?ってのがうやむやになりやすく。。。

どうしても、分け方の科学的論理的確かさだけでは世の中済まないということなのですね。

貧富の差、知的能力の違い、権力関係と。そういった様々な差、違いもかなり大きな影響を及ぼしますし、倫理的な政治力の行使とは?というのはずぅーーーっと考え続けなければならないのでしょう。分けて考える世の中では、どうしても客観的な基準や証拠に基づいた証明・議論に正しさの根拠が丸投げられる傾向が強くなってしまうので、やはり、それは私たち人間の能力からすると、その中ではいい方、ぐらいの認識で、つながっている全部を丸っと面倒見れたらなー、という願いは切実に持ち続けた方がいいのではないか?と私は考えています。