いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

情報の情は情緒の情

 私なりのストーリーを書き上げるために

そもそも何が絶対言っておきたいことなのか?

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礼儀正しく参りましょう♪

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マネ

マネはカタチ。

マネはケアの源。

マネはちょっぴりの悔恨を含む。そして憐れみも。

カタチは一瞬で現れる。円形なら、それが認識された瞬間に既に円形を成していて、円形を成すまでのプロセスに思いを致すことは稀だ。

故に、同じ円形でも、それが実は繰り返し現れるプロセスであって、円形を成すために必要なモノどもが、かなり再現性の高いパターンを示すように運動しているということを忘れがち。別の言い方をすると、”繰り返しの時間感覚”が失われがち。例えば、円形というカタチが、あたかも永遠不変に存在し続けるかのようにも感じられる。

この私たちが通常の感覚として感じる永遠不変性がために、ふとした拍子に時間の流れを感じた時には、遅れ一回性、プロセスの詳細(特に通時性順次性)などなどに思いを馳せさせられることになる。

世の中にはやり直し可能なモノゴトも沢山あるけれども、基本的に過ぎてしまったものは取り返せないんだな。

勿論時間の流れなんてものには全く気付かないで過ぎていくのも日常茶飯事。まさか永遠を生きているなんてことは思っていないだろうけれど(私たちは自分がいつか死ぬということは知っている)。

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知性なるもの

マネは時間旅行の結果であり発端。

人間以外のあらゆる生き物も、そして、あらゆるモノも時間旅行をする。

そこに違いはない。

でも、モノは自分たちが時間旅行をしていることもマネをしていることも多分知らない。少なくとも「知っている」とは言わない。

それでも知性と呼ばれるものの萌芽はある。

時間がずれれば、見え方がそれだけ増える。

モノは繰り返し繰り返し起こるパターン。

繰り返し繰り返しほぼ決まったカタチで現れるなら、そこにあたかも知性のようなものがはたらいているように見えるのは自然。知性を持った何者かがそうなるように導いているかのよう。

この全知全能の何かがあたかも存在するかのようなミステリアスさに加え、繰り返し繰り返し現れるほぼ変わりのないカタチは、哀愁を帯びる。受け身の憂い。「起こさせられているのだね。君たち。」たまに気付かされる大なり小なりの変化ですら受け身の証明に見える。「ここまで似ているならなんとかならんか?なんとかしたい!」

パワーは主体という位置付け(Subject position)を得て行使される。しかし、主体への憧れは、何もパワーへの憧憬・渇望だけが動機ではない。必ずしも全知全能の何かに並び、凌駕したいわけでもない。「私がケアしてあげたい」という慈愛。そして常に半歩遅れてしまう悲哀

人間が感情と呼んでいるものの始まりに、やや高度と思われている慈愛や悲哀がある。つまり、これらは人間以外の動物たちも感じている可能性が高いもの。しかし彼らは慈愛や悲哀をあくまでも受け身でしか体現できない。主体と呼べるまでに強力なものは未だ発達していないから。

主体が生まれるにはそれ相応の時差が要る。

生き物とて無数のモノが集まってカタチ作っている。

時差とは、集まっている無数のモノがそれぞれに刻む時間が作り出すより複雑なパターン

人間はそれが出てくるのを待つ。

他の生き物とは比較にならないぐらい待つ。

それは賭けにも見える。

では、待てなくなった人間は一体どこへ行くのだろう。

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情報と情緒

情報に神さまの役割は果たせない。

それなのに、人間は情報をあたかも神さまのように扱っている。

情報の情は情緒の情。

情は、決して間に合わせることができなくても、過ぎ去った過去を素に近似を取り続ける意思に昇華されなければならない。情報によって未来を予測できる、現在をコントロールできると思うのは情報信者の思い上がり。

結果を支配したいと思うのは人間の弱さ。

弱さを強さと偽る時、人は踏みつぶさなくてもいいものまで踏みつぶす。

礼儀は深い、深い。

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未来について想定するということ

人間が現在情報と呼んでいるものは情報ではなく、「こうあって欲しい」という未来、そして、「こうであったらよかったのに」という過去。いずれもこの世には存在しない架空の世界へ私たちを誘(いざな)ってくれる人造物。

とある好ましい現実を望む情には満ちているけれど、現にこの世に存在しているモノ、確かにこの世に存在したモノへの情に欠けている。

「それでもいいじゃないか」といえる根拠は、未来は誰にも分らないという厳然たる事実。

より正確に予測できる方がエライに決まっているじゃないか。

そうでもないのですよ。

確かに起こった過去へのリスペクト。

より正確な未来予測に努めている人も、時々刻々過去へと追いやられていく。確かにその時そこに存在していたもの。ウソ偽りないよりよい未来への意思。それもこれも何もかもが否応なく過去のモノとなっていく。

「こうであればよかったのに」という情は、あまりに自己肯定が強くなり過ぎれば、確かに起こった過去、それを生きていた者達の情をないがしろにしかねない

理想には程遠いのかもしれない過去も、生身の人間がそれぞれのやり方で生きていたのですよ。

礼儀正しさは、現にこうして生きていることの価値を痛いぐらいに感じ入ってこそ。さもなくば途端に失われてしまう程フラジャイルなもの。

さらに言うなら、私たちが生きている現在が理想に近付いているという証拠はどこにもない。過去と並べて見ようが見まいが。

過ぎ去ったモノゴトとはいえ、私たちには何かを断ずる能力も権利もありはしないのです。

慈愛と悲哀。

失ったわけではない。

自己肯定が強過ぎるだけ。

思い出してごらん。

慈愛も悲哀も主体よりずっと先に生まれている。

受け身なのです。

感じさせられているのです。

慈愛や悲哀の情を覚え、他者へ慈悲を送り届けられているからといって、特定の誰かのお手柄なわけがない。

そうした営みはいわば自然の摂理なのです。

成果の独り占めは礼儀正しい態度とは言えません。

情報の情は情緒の情。

情緒は確かに起こったことをより正確に追跡していくための鍵。

慈愛や悲哀こそが、意味ありげなパターンが発生しそうな場所(情報の出所)を教えてくれるかもしれない、というサイン。

か弱そうなモノに対して湧く慈愛や悲哀の情を振り向かなくなってしまっては、人間に明るい未来など待っているはずがない。

これは人情噺などではなくサイエンス。

確かに起きたことについてできるだけ膨大な量のデータを集めて近似をとる。切り捨てていいものなんて実は何一つとしてない。データは見えなくても探し当てるぐらいの気持ちがあって当たり前。

そうすることによって、より正確な未来予測に従事していると言える。

過去を置き去りにした未来予測は隙を生みやすい。

肥大しがちな自我が忍び込む。

明らかに弱げなものをケアしたいと感じる思いは自然なもの。意識の世界のことのようでありながら、自然などから呼び起こされているという意味で受動的。慈愛・悲哀の情は、決して人間のチカラのみで生み出されているのではない。

特定のグループに属する者達だけに見える情報などというものもない。ありとあらゆるものが時間旅行を続け、マネを続けている。何もかもが情報になり得る。

どんなにいいものであってもゴール(何が情報か)を予め決めてから話は進められない。それができればモノゴトは簡単だ。ゴールを決めると始まりも決まってしまうから。ジレンマ。始まりも終わりも決まってしまっていたら、参画可能な人も限られるだろうし、無理に参加したところで実質意味ある貢献ができるものでもない。却って「お前らも参加してたじゃん?」って、合意形成を遅らせるような意見などが沈黙させられる。結果多様性はどんどんと低下し、物事の始めと終わりを決めることができる者達のお好み通りに世界は収斂する。

オープンエンデッドというレトリックにも注意が必要だ。始まりは誰にも決められない。「何かがそこから出てきそう」と言えるだけ。そう言えるように工夫しなければならない。「答えはオープンよ」とやさし気な顔で言ってくる連中は、決してオープンマインデッドなわけでもカインドなわけでもない。むしろ真逆。ゴールがどう記述されようが自身の身の安全に疑いがないから「勝手に喋ってれば?それで気が済むなら。」なんてことが言えるのさ。彼らにとって想定外の未来など存在しない。ゴールも見えないのに自由に話せるものではない。「自由に何でも喋っていいよ」なんて言っていられるのも、彼らにとってゴールはオープンなんかじゃなく暗に決められているから。未来がオープンであることなんて誰の目にも明らかだ。それをわざわざ言ってくるような輩には警戒を怠らないことだ。情勢変われば即刻彼らなりのゴールを示し、そこに至らない者達をシャットアウトするのは目に見えている。彼らにはそれだけの力がある。

ただ望ましい未来を思い描くこと。そんな何気ないことだけで語り得る範囲が規定されてしまうことについて、私たちはもっと敏感であるべきだ。

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礼儀正しさの科学

悪いウソというものがある。

情緒の情を報じもしないし、報いようともしないウソ。

「内心で起こることなんて自分以外誰にもわかりゃしないんだから」という考えは神さまを冒涜している。

「神さま」というのが非科学的でイヤだというのなら、確かに起こったことを隠匿することの科学的意味について考えてみるといい。

情というものはそもそも起こさせられるものであって個人の排他的所有物ではない。広く皆で分かち合われるものだ。確かに起こったことをより正確に知るために。発信する術を持たないがためにやり過ごすことはあっても、意図的に改ざんしたり隠ぺいすることは科学的探究を妨げる。

情が機械で探知されるもの(電気信号?)だとばかり理解するのも愚かしいことだ。いかなるパターンを電気信号が明らかにしようと、感じた情を報じるにしても、これに報いるにしても、探知器は肩代わりしてはくれない。慈愛も悲哀もそれを大切と思うかどうかは私たち一人一人。電気信号が描くパターンに何を語らせたいのか?「これがあなた方の情というものの正体だ」と言うだけならまだしも、「以後情の取扱いは探知器・計算機に委ねなさい」などというのは行き過ぎだろう。

現代的自我にまみれた哀れな子羊たちは、か弱き他者への情愛よりも、自身に降りかかる苦痛の方に注意が向きやすい。オープンエンドを気取るような、普段苦痛からは縁遠く、よって苦痛への耐性が弱い者達はより哀れだ。

苦痛であろうが何であろうが自身の情に目が向くことは貴重な機会だ。しかし、情というものは「どう見るか?」がさらに大切。

現代の子羊たちが哀れであるのは、折角情に触れても、その本質とは程遠い曲解を捏造することでしか自身を慰められないところにある。別の言い方をするなら、情を実情などお構いなしに自身の知っている言葉でのみ解釈しようとする。自分自身の感じたことをどのように解釈しようが勝手だということだ。

真理からいかに遠かろうが、本人たちの慰めになっているのであればそれでもいいのではないか?とも思える。

でも、子羊たちが哀れとはいっても、広く社会に及ぼす影響力が大きいのであれば、ナルシシスティックに自慰に耽っていてよいとも言えないだろう。結局自分の知っている言葉だけに執拗に拘っていられるのも、世間に相手にしてくれる仲間がいるからなのだ。弱き者達にそのような贅沢は許されていない。かたまって暮らすことはできても人生を謳歌し合うことはできない。

哀れなのは能力のある方の人間たちがそれほどまでして信じようとしているものの土台の脆さ。空虚さ。

そうあって欲しい未来だけをただただ願い続ける。

未来なんて誰にも支配できはしないのに。

見たいものしか情報に見えない。見たくないものは情報として見ようとしない。

そんな都合のいい情報世界で見たい未来だけを目指すことが勤勉に努力するということらしい。「日夜努力しているだけでも称えられるべきなのに、何故さらに苦痛に苛まれなければならないのか?」という泣き言。他に悲哀を感じ慈愛を届けるべき者が存在しようとはよもや思いもしないのだろう。

他者・他物から慈愛や悲哀を覚えさせられることは目出たいことなのだ。生き物として正常に機能していることの証でもあるし、人間であるなら、数少ない自然のプロセスとの直接的接点なのだから。

より確かな信仰の対象とは、繰り返される日常にこそある。

私たち人間とて、繰り返しほぼ同じカタチで現われるパターンの一つに過ぎない。それでも、ほぼ決まったパターンといったって、私たち自身が「つまらない」と断言できるものではない。

先が知りたければ待つよりほかない。いかなるパターンが生まれてくるか。

確固たる信仰なるもの、信じて待つところにある。

情報の情は情緒の情。

情報は私たちの恣意で勝手には決まらない。慈愛や悲哀などの情緒が様々なモノの関係性から湧き起こるように。

勝手に走るべきレールを決めて、そこを走ることを努力と呼ぶのはあまりにもイージー過ぎるし、慈悲にも欠ける。

慈悲に欠けるということは、中立公正・客観的立場をとっているとかではなく、私たち人間がどう認識するか?とは全く無関係に存在する事物(いわゆる物質世界)との関わり合いを絶っているという意味で、より非現実的、幻想的なのだ。

私たち人間は、自然と触れれば慈愛と悲哀の情をもよおさずにはおれない。

再確認しますが、情は主体が確立する以前のこと

主体が確立した後ですら、自身に悲哀を感じているのやら、自然を慈しんでいるのやら、境界線は判然としない。

一つ間違いないと言えるのは、自身も自然も時間旅行を続けており、私たちが自然に思いを致して慈愛や悲哀の情を感じる時は、彼我の時間の流れが部分的にではあれ重なっているか、或は、少なくとも一部が相似形を描いているということ。私たち人間の側から言わせてもらうなら、人間が自然を写し取ろうとしている時。自然を愛でる気持ち。コピーはどうしても遅れてしまうことからくる哀愁もそこはかとなく漂う。

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時間を知ろう(空間とともに)

自己複製という言葉はミスリーディングだ。

そもそも自己なるものが確立される以前のお話。

単細胞生物が自己複製する?

私たち人間は、自己複製するとはあまり言わないし、その他の割と大型の哺乳動物でもそう。いや。植物にしたって自己複製と呼ぶのはとあるパーツ(遺伝子)に限ってのことでは?

単細胞生物や遺伝子に自己複製という言葉は妥当なのだろうか?

コピーがいかに精密でも、この世に存在する別々の個体が同一とは言えない。厳密には。

それらを同一のモノと見做すのは人間。

あたかも同一のモノであるかのように取り扱ったり振る舞ったりするのがその他の生き物たち。

やはり多くの生き物は受け身的だ。

人間だって全てが自律的能動的なわけではないし。

自己増殖ではなくて単に増殖ではダメなのだろうか?単純に数が増えていく(かなり爆裂的に)ということなのでは?ほぼ同一の形質・性質・機能・構造を持つモノが。

大量コピーは大量喪失の可能性を感じさせる。

増えている本人たちに繁栄だとか種の保存のためのリスクヘッジだとかは感じられていなさそう。

確実に感じられているであろうものはカタチ。

似ている/似ていないはかなり迅速に判定されているように見える。

似ているの裏側には似ていない。ほとんど表舞台に出てこないモノたち。

一瞬の判定は、ものによっては光の速さ。

光は速さだけではない。

エネルギーの大きさと多様さ。

情報の塊。

カタチには要注意。

永遠不変のカタチそして情報。一瞬で、私たち人間の目に、”意味あるもの”として映るモノたち。

どんなに精巧な認識システムをもってしても零れ落ちてしまうモノたち。

何処かで折り合いを付けなければ。

私たちは、私たち自身のカタチが永遠不変でないことを知っている。

限界の存在を知りつつ、正確な限界を見極めることが難しい、葛藤の世界に暮らす私たちにとって、慈しみは不可欠。

目に見えるカタチのみで人々の考えや行動をそろえようとするのは、人間自らの弱さを省みないがために起こる暴力だ。

礼儀正しさは悲哀の情とともに。