いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

日々のあれこれをマネージするために

 

おカネの魅力、事実認識、セルフイメージ

世の中にはすでにジャンルというものがある。書くものに限っても。

そしてジャンルによってカネになり易い、なりにくいというのも、時代とともに移り変わりはあれどもだいたい判るようにはなっている。

ブログライティングというのは比較的新しいジャンル。うまくいけばおカネにもなる。さらにおカネになるような達人ともなれば、名が売れるので、別ジャンルへも手が広げられるようになる。

無職無収入生活が長くなってきたので、私もおカネの問題は切実。

もともと書き屋ではないので、カネになるようなものを書けるようになるためには、わりとシステマチックに手法というか技法を習得するのが早道ではあると思う。

なんだけども。

実は書き屋は目指してないのよね。

私が書く動機は、人間の意識を変えるというか、意識を操作する方法をより明確にする、ということ。(明確にしさえすれば、誰でも使えるだろうと、結構安易に想定している。)

現代人の意識ってどうしてもおカネ問題に引っ張られる。生活していかなければならないから。(勿論それ以上(例:自己実現とか)を目指す人々も多いのだけれど。)

いくら「書くこととおカネとは直結していない」と決めたとしても、気持ちは引っ張られる。カネになったらいいなー。

おカネは大事。しかもおカネほど便利なものはない。より多くの人がそこそこの生活レベルを享受できるような世の中を実現するために。

ただ、貯め込み過ぎて動きが理想よりも鈍い、とか、貯めてないけど「こんぐらいは最低必要」と見積もる額が実は不正確なために余計な不安感を煽ってしまっていたり、とか、もうちょっと上手く使えるようになった方がいい。

個人的にはベーシックインカムを目指したいのだけれども、これって、別におカネを全員に配ることだけではないと考えている。

仕事の意義であるとか、生産性のこととかは議論されている。

私が、意識の操作方法を明らかにしたい、と思うのは、そうすることで、より事実認識を楽に、かつ、大きく過たずにできるようになるのではないか?と考えるから。

もしも事実認識が楽に間違いを少なくできるなら、おカネをいくら持てるか?貯えられるか?を正確に積算しようとするよりも、よっぽど楽に過ごせるのではないか?と考えている。

極端な話、「時々間違ったり、かなり無理な賭けをやって負けたりしても大丈夫なようにするにはどうしたらいいか?」というところまで考慮に入れたい。カツカツに効率性最大を計算した計画は、計画自体は美しかろうけれども、現実に計画通り実行されることはほぼないだろうし、現実的な”ゆとり”(あそび)は考慮に入れられるべき。

万人に定額のおカネが支給されるというのは一つの手だけれど、もしも、友だちとか親類同士、或はあかの他人であったとしても、「あらー。やっちゃったの?」ってちょろっと死なない程度に助けてくれるような世の中なら、なんかやさしいかんじがするんですよね。で。それって結構幸せな状態なんではないか?と。

みんなで上へ上へと行こうとすることによってかえって不安感を増すのではなく、上も下もなく、それぞれが「自分って何者?」ってのを正しく理解できれば、今ほどには他人を敵視というか、自他の区別をシビアにしなくても済むんじゃないのか?と。

理想は、持っているなら進んで持ってない人に与えることなんだけれど、今そのような状態を想像するのは難しい。

上に向かって(誰に対してだか、いくらだかもよく判らないのに)「無駄なもん(おカネ)は吐き出しちまえ!」と叫んでもあまり効果は上がらなそう。

なので、まずは「事実をなるべく正確に認識するってどーゆーこと??」ってのも含め、より意識的に正確な事実認識ができるように、意識の操作方法を明らかにしてから、その方法でもって日々着実な事実認識のもと人生をエンジョイすることを目指したい。

書いたり読んだりは、内容であるとかその質であるとかを度外視したとしても、それ自体でかなり有効な手段だと考えている。

ただそれだとイマイチねー。効果が分からない。。。いろんな書き方読み方があるわけで。。。書いたり読んだりしたからって必ず事実認識力が上がるか?というとどーもそういうわけにもいかなそう。。。おカネに対する意識が社会全体として変わらないなら、みんなおカネやそれにつながりやすい評判なんかに必要以上の価値を置いちゃうわけだし。。評判さえ得られるなら多少事実が捻じ曲げられようが構わない。。。ってね。

何度か言ったことがあるとおり、直接的に表現すれば、核となる目標は、「自分自身を知ってどんどん濃くしていく」ということになるんだけれども、これまた度々言っている通り、「自分自身」って何???っていうのがね。。。現実世界に特に確固たるカタチをもって存在しているものでもないので。。。いろんな解釈があり得る。

さらに物的なコト(特に「生きていくために必要不可欠なエネルギーをいかに確保し続けられるか?」)も考慮に入れないわけにはいかない。

交換可能性・期待・信用

「おカネには強烈な引力がある」

というのはあくまでも推定のお話。

一体”おカネの引力”とは何なのか?

私は卓越した交換可能性にあると見ている。

交換可能性が高いと人間は無視できない。

生きている以上衣食住や健康・安全に意識が向くことは避けられない。これは本能というよりも、言葉にするとそんな感じということ。だから、必要最低限とはいっても人により違ってくる。よって、衣食住や健康の基準なんかを作って管理することは本来不可能。

生きていく上で最低限必要なエネルギーというものはあるし計算もできる。でも、日常生活の行動を考える時、その数値を基準にすることはできない。それはあたかもマシンとかその部品を扱うようなもの。

交換可能性の高いものに注意が向くというその注意の対象の中には、生きていくために必要な物的資源にありつきやすそうかどうか、という見込み情報も含まれる。しかし、たとえ原始生活を営んでいて、木の実を拾ったり、狩りをして動物を捕まえたりしていても、木や動物たちが、採集や狩猟に費やされるエネルギーとの交換で生命維持に必要なエネルギーを与えてくれるとは考えていない。お腹が空くと食べられそうなものを探すけど、先人から伝わる知識に従う場合もあれば、自身の経験に頼る場合もあれば、それらをもとに新たなものにチャレンジする場合もある。生きていくのに必要な交換というのは、直感に従っているように見えて実はいろんなモノゴトが関連付けられた上で現れてくる”意味”のようなものに駆動されているようだ。

ポイントは、「ありつきやすそう」「食べられそう」という期待

期待はあくまでも期待であって確定的な事実ではない。

期待には、人それぞれの事実認識が作用する。

期待がどれ程実現性の高い/低いものか?という(不)信頼性にも関係する。期待がそのとおり実現するかしないか?を信じる/信じないの自由がありそうだけれども、実は、結局どっちにするか?ほぼ”決めさせられ”ている。つまり、「信じる」というと「自発的に選んでいる」と思われがちで、それ自体は悪いことではないけれど、逆に「信じない(期待なんて別にしてない)」場合もあって、こちらは、別に「『信じない』と決めている」なんて思わず、行動をとったりとらなかったりするわけで、結果として、内心では全く信じて(期待して)なんていないのに、他者から勝手に”消極的にではあっても信じている(とある期待感を持っている)ことにさせられてしまう”ことが多くなる。

期待は内心の現象だけに勝手に解釈もされてしまう。大体に置いて様々な証拠を提示されたりして(算数で出てくる期待値なんてその最たるもの。だっていつの時点の誰の期待??なんてまるで無視でしょ?とある事象がとある確率で発生するというほとんど何にでも当てはまることが、とある時点での”期待”と称される)。しかしこれは、科学的実証主義というよりもパワー(権力関係上の不均衡)

例えば、大雑把な話になるけれど、「交換は促進された方が広く社会の利益になる」という証拠は山のように出てくる。そうすると、「何を?」についての細かい議論に入ることなく、ともかく基本姿勢として「交換を妨げない」ということが規範として強制されるなんてことになりやすい。

交換は、「物質的便益追求」と「その土台となる信用すべき他者とのつながり追求」という、相互に関連しつつも、独立した次元で実施される。そして、両次元とも、権力関係上の不均衡が前提になっていて、格差拡大の方向に作用する。

物的便益追及のための交換可能性は、証拠を提示する者の語る”意味”によって高められ、信用してみようと決めるかどうか?は似た者同士を志向することによって可能性が高められる。その結果、階層化が進み、固定される。

格差拡大の仕組みについて、もう少し詳しく見てみよう。

 

証拠を提示する者は、基本的に提示される側との互恵関係を想定しているけれど、「互恵」とは、相手方の期待の書き換えを伴う。「期待を書き換えられてしまう」ということは、「実質声を失う」ということ。そもそも交換は、関係が不均衡だから発生する。交換することで利益になりそうだと気付く人がいるから交換は始まる。勿論交換が習慣付いた現代では、双方同等のイニシアチブでもって行われているように見える交換も一般的ではある。そういった場合でも細かい話をすれば、相互に自他の違い(強み弱みなど)を考慮に入れているのであって、”同等””対等”などというのはあくまでも契約書上の権利義務関係の話(それでも”甲乙の関係”って当たり前にあるぐらいだし)。

人間関係にまつわる信用が似た者同士を志向するのは避けられない。何故なら、この信用は、生存のために不可欠だから。お互いのやることなすことの意味が全く分からないような状態で長生きするのは難しい。でも人間個人差こそあれどこに行ったってなんとなく馴染みながら生きていける。これは、「『信用しない』という選択肢が実質存在しない」ということ。ここでも期待が働いており、より力関係上弱い方の人々(例:移民など)のストーリーでは、なんと自分自身の期待の書き換えが行われる。強い人たちの開発した、彼らにとって理解しやすい語彙を使ったりすることによって。したがって、物質的便益追求のための交換に伴う参画者間の関係(互恵契約関係)との違いは、格差拡大へのプロセスが”遠隔自動操作的”であること。特にパワーのある者から直接干渉されることもなく、勝手に似た者同士で固まっていく。

階層(持っているものの量や質)が隔たった者同士では、積極的交信が起こりにくい。下から上への”想像”は起こりやすい。サインを使った抽象化は皆お手のもの。他方、上がその「下の上についての想像」に気付く可能性は低い。整理され切った主流の世界に住む人がややこしい個別事案を気に掛けるというのは稀。 

さらに、物質的便益追求において、互恵関係が想定されていることもあって、上が下を搾取しているとの疑いは抱きにくい。人間悪いことも「あくどいことしてやろう」という意識では、中々やり遂げられない。バレ易くなってしまうし。。大概において「なすべき理由」みたいなものが設定されている。まやかしではあってもね。

こうして、上の方もすっかり善意なまま格差が拡がっていく

この放っておけばどんどん広がる格差をなんとかしたい。

特に私が拘りたいのは、善意なまま格差拡大に貢献してしまっている層に、事実を認識してもらう、ということ。

「今を生きる」「一人一人の唯一無二の人生に責任を持つ」

 

めちゃくちゃ大雑把にまとめると、「ええもん」なんてこの世にいないんですわ。

サイン使って日々を過ごしている時点で、生きているモノ、植物だって動物だって、そして、人間だってモノ扱い。

「そんなことしてない!」って言い張ってもムダ。

”サインに従って生きる”んじゃなくて、”サインを使う”というのはそういうことだから。

特に人間は、偶然を偶然とのみは受け止められなくなってしまったわけで、よくえらそーに未来予測ができるの当たるのって言いたがるけど、それってなんもエライことではなくて、どちらかというと”目くらまし”。

本当は誰も未来がどうなるか?なんて分からない。未来どころか、現に目の前で起こっていることだって本当に分かっているんだか怪しいもの。

「分かる分かる」って賢げな人とかそういうキャラにあこがれる人はすぐに言いたがるけれど、そういう態度って実は人殺しなんだよ。本当は生きていて、一瞬のちにはどう変化するのか分からないのに、「大体こんなモノでしょ?」とかいって他者のことを適当に決めつけちゃうわけだし。

勿論クセとか習慣とかあるし、過去にどう振る舞ったか?によってジャッジされることは避けられない。むしろ、社会秩序を守って生きていこうと思うなら、自らやったことには責任は負うべき。

それでも絶対はない。

分かる分からないは常に葛藤の連続。

これ、「非効率」とか「ムダ」とかいって、何とかして現実のあれこれをなるべく固定化されたモノゴトで埋め尽くそうとする。

安定的で迅速な事実認識のためには大事なことではあるけれど、あまりにその大事なことに対する責任感が薄いと感じる。

これはあくまでも私の好みでしかないけれど、無責任に便利な生活を求めるぐらいなら、多少不便であっても責任ある生き方をしたい。

「だっておカネなきゃ生きていけないじゃん」とかいって、ただの情報媒体でしかないおカネをモノのように扱って、「自分の知識なんだからおカネに交換して何が悪い?」と言ってみたり。。。

そもそも特定の人の知識なんてないし。

自分がかかわった知識が価値あるものだというなら、せめて稼いだおカネぐらいは情報媒体として社会に広く還元してもらいたいところだけれど、おカネも自分のモノって思い込んでいる以上、そんな還元なんて望めない。

知識や情報についての理解が浅すぎる。ついでに自他の境界(所有権とか)についても。

勿論現代に生きている人だけの責任ではないけれど、「ジジイやババアもやってやがったんだからええやろ?」ってのもどーかと思う。

そんなことはどうだっていい。今を一生懸命生きているだけ。

そうそう。

それが一番大事。

今を一生懸命生きるってのは、スーパーレフレキシヴであるということ。別の言い方をすると、モノゴトを分かる/分からないにまつわる交換可能性と唯一無二性について葛藤することを厭わないこと。殺してしまった現実があるなら、きちんと憶えておいて、いつかきっと償うと心に刻むこと。

過去にも未来にも今を生きているあなたはいない。でもあなたは過去の人間いやそれ以外のモノゴトを引き継いでいて、そして、おそらくまだやってくるであろう未来の道筋となる。うまくいかないことだらけであったとしても、今を一生懸命生きるというなら、全て自分で引き受けて残していくこと。カッコイイ仮面ちゃんだけ遺して、「これを真似ろ!」ってのは、厳しいだけじゃなくて、道を誤らせるよ。私たちが今まさにその道を歩みつつあるのかもしれないけれど。。。