いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

信じる/疑う

神が死んで久しいので、まあ、当然のことなのかもしれませんが。。。

あまりにも理解が根本のところで間違っている文章に出くわしたので。。。コメントを残すことにした。

 

宗教信仰のお話では原則”疑う”はない。

葛藤はあるだろう。

内心では信じたいのに行いが伴わない、とかね。

疑うならば入信しなければいいこと。

入信後疑うことは?

あるでしょう。

で?

なんで疑いのある宗教が気になるんでしょう?

疑っているんならかかずらわらなければよいのでは???

気になっているということは、葛藤の方でしょ?信じたいけどうまくいかない。。。何とかするのは自分の方で、宗教の方じゃない。

信仰心ってのはそういうものでしょ?

疑いのある信仰心って???

論理的に矛盾。

どころか。。。

そんな状態では救済とかは全く無縁。

そもそも救済なんてものは求めていない、ということ。

つまり、宗教信仰のお話ではないのだ。救済を求めない宗教なんて。。。

 

宗教的信仰は、日常的に、詐欺に遭うかどうか?などへの備えとして人を疑う/信じるという話とはいっしょくたにはできない。敢えて同次元で考えたい!つまり、日々出会う人々をあたかも神様の化身であるかのようにとらえ、原則信じようとするところから始める。そんな方法を排除するものではありませんが。。。

信じる、疑ういずれにしても、それによって何か便益や損害があるかどうかを問題にし過ぎるのだろう。

宗教の救済というのは便益??

便益とは違うと思う。

信じるという行為自体が救済。信じることができているということに対する感謝の念すらある。

「信じたげるからいいもんちょーだい」ではないのだ。信仰心というものは。

ましてや信仰の対象なるものは、「信じなきゃ何もくれないなんてケチ」とか言う相手でもない。

確かに「信じないなら救わない」なんて口ぶりの宗教もあるのだろう。そしてそういう宗教は偽物だ。

でもね。

信じるって。。。

本人にしか分からないニュアンスなんよね。

ちらっと疑ったりするなんて日常茶飯事だろうし。

本気で信じているかどうか?なんてのは誰にも分からない。けれども神さまには見えているだろうなーと敢えて思う(信じる)。。。

というぐらいにかなり重層的なのだ。

薄っぺらい二項対立ではない。

対して、疑う方はイージーよね。。。だから多くの人が世俗に生きる。宗教なんて頼らない。生きていける見通しが立つんだもの。。それなりに。。なんで敢えて「信じているか、信じていないか」を自分と神様に問うような面倒なことする??

日々の行いの場面では、どんなものも結論付けずにおけばいいわけだから超カンタン♪リスク管理という名の保身であり、多様な価値観や可能性に対する寛容さであり、、何でもアリ。

世俗で許される信じる・疑うの適当な出し入れ。

結論めいたことを何一つ言わず、それを”弱さ”と言わないで、適当な言い訳をつけて自己正当化を図る。

何でそんなことをするのか?というと、結局救いでも何でもいいから、便益が欲しいのよね。信じたいのはそれ。何かやったらご褒美ちょーだい。それは当然の権利。。。つまり、損得を超えた何かを祈るほどの期待なんて微塵もない。

偽宗教を揶揄することもカンタンだろう。

でも本当の宗教の意味、信仰の意味は語れない。

だってそんなもんかけらも思いつかない世界に生きているんだから。。お祈りする気持ち、お祈りの意味が理解できない。。。

知らないこと、いや、普段から別に信じるとかなんとかはそれほど大しておっきな問題ではないって生き方をしているんだからさ。。。そういう興味のないことについて語る必要はないってことね。

ご興味のある損得のお話だけしていればいいんじゃないでしょうか?

あー。そうしてるんだね。。実際。。。ある意味”宗教的”だね。。損得信仰。。。否定神。。。

やっぱ人間って当たりの可能性が高いと祈らないよね。当たり前だけど。。。祈るよりも探るよね。。より高い可能性。

そりゃ無理だ。。って感じたら祈るだろう。無駄にあがくよりも。。。(まあ祈りもあがきといえばあがきなのだが。。。)

「否定神」を疑ったり否定したりするのが難しいのは、でも、純粋に当たりの可能性の多寡の話だけではない感じ。

一旦信じ始めると抜け出られない。

麻薬だね。

否定する時の(似非)全能感とかね。。。

敢えて否定するのは、こちら側が真の側だと確信できているからなんよね。

本来その真の側にいられる安心、つまりは肯定の感覚をまず愛でる、慈しむ(肯定を肯定する)ところから始めるべきなんだけれども、どうにも否定の杖を振ってみないことにはその威力が実感できないものらしい。。。で。やってみちゃうと。。。実際威力は満点なので気持ちいい。。。やっぱり自分は真の側だったんだという安心感に加え、否定された相手がぎゃふんと言わされている様子とか。。。そういった心的便益のみならず、景気良かったりすると、否定杖振るえるってだけで職にありつけたりもするからな~。

もしも状況が不利になってきて、自分が真の側に立って、否定の杖を振るえることがなくなってきても、振るった時の快感は忘れられない。。。

他方、そんな大した恩恵も及ぼさない(否定の杖を振るえる機会をあんまりもたらしてくれない)ものを、今さら愛で慈しむなんて気持ちは湧かない。。。でもなんとなくしがみつき続ける。。。他人が否定杖振るってるのに喝采浴びせて慰めにしたりして。。。というか、その他の方法を思いつけないのよね。。。覚悟を決めて何かを信じ、賭けてみるなんて気持ちが分からないし、起こらない。

note.mu

 

どーせ否定されるんでしょ(ならおいら否定する側でいいや)。。。

肯定の感覚って耳障りはよさげだけど、、、詰めて考えてみるとしんどいことばっかだもんね。。。どんどん自らに重しを課していく感じ。。。「え?それ肯定できてますか??ホント???」みたいな。。。

そげに疑い続けなければならんのなら、、、端っから信じなきゃ(肯定なんてしなきゃ)いいんじゃん?って思っても不思議ではない。否定神信者も周りにわんさかいるような状況じゃあ尚更ね。。。

かくして、真だの偽だの、それは自分自身のためなのか?社会全般のためなのか?まどろっこしいことはさておき、何でもかんでもともかく「え?そんなもん信じてんの?オタク??」という態度(チャンスがあれば即否定に入れる態勢)がキープできるように、という超非生産的な営みに、痛ましいほどに血道をあげる。。。恐るべし。否定神の呪縛。。

抜け出るためのポイントかぁ~。難しいな~。

人生は一度きり。とか。

想像上の時空は無限だけど、現実は一瞬一瞬。同じことの繰り返しに見えても、同じもんは二つとないよ。とか。。

言われてもね~。イマイチでしょ?

難しいんだけれども。。。

それでもやっぱり何かいやぁ~な感じがした時に、まず外を見渡さないで、自分自身の感覚について考えるところから始めましょう、と。

そういう習慣がつかないと。。。

何も変わらない。

それは確信をもって言える。

希望は私たち一人一人の中にある。

そんな肯定締めでよろしいでしょうか???

だめだろな。。。これじゃ。。。

ま。でもさ。いいほうがいいから。人間。だからこそ肯定の匂いも嗅ぎ分けられる。身を投げ出してまで信じようとするかどうかは別としても。。

やっぱり希望はあるんだよ。

一人一人の中に。。