「社会分析」といいながら。。。
ここまでは専ら個人のプロセス(考え方)についてしか書いてません。
何故かといいますと、社会の様々な問題、課題、事件などを扱うと、とりあえずそれらしいことは言えてしまうから。
それの何が問題なのか?といいますと、以前のポストでちらっと言及したのですが、「多くの人が、例えば問題であるなら、問題と認識している」と十分に推定される事件・事象って、結局他人事なんですよね。
他人事っていうのは、自分が経験していないんだから当たり前なのですが、一応話題に上るってことは、自分にも多少は関係ある(と感じている)はずなんですね。
でも、話だけなら、それほど自分との関連性って前面に出すこともない。ひょっとすると、無理やりこじつけて自分も一枚嚙んでいるような話し方になっちゃうと、ウザいって思われてしまうかもしれません。
そんなこんなで、一応お話ができたとしても、他人事って、適度に自分との関わり合いを測るのって結構難しいのです。
そういう微妙な距離感の測り方を覚える方が、既に問題化しているような事象を分析するよりも大事なんではないか?と考えているのです。
そうはいったって、沢山表面化している問題を放ったらかしにはしていられませんから、どんどん分析して、できることなら解決していかなければなりません。なので、正統的?な社会分析を否定するつもりはありません。理想的には、社会問題を、各自適切な距離感を測ってどしどし実施していければいいと考えています。
例えばこんな感じ↓
岸政彦さんらの「質的社会調査の方法」。これめっちゃいい本。自分の仕事にも有益すぎる。凡庸なジャーナリズム論、取材論を何冊も読むよりこれ1冊読むほうがかなり大事なことが身につくよ。 pic.twitter.com/PaeckfBxbf
— 石戸諭(Ishido Satoru) (@satoruishido) 2016年12月30日
とはいえ、人間の知的能力にも限界がありますから、問題分析があたかも自分とは無関係なモノのように扱われたとして、たとえ内心で、「ちょっと分析対象をモノ化しすぎているかな?」と感じていたって、聴衆にそれを伝えるのは容易ではありません。
残念ながら、多くの社会分析は、どんどんモノ化が進むように作用していると感じています。
社会を構成しているのは一人一人、人間なんですが。。。
おかげで、社会分析って、一つのステータスシンボルみたくなっちゃっているんですね。できたらエライ、おカネがもらえる、カッコイイ。。。
生身の人間の生活を解釈させてもらって、解釈させてもらった人々へのお返しなんかよりも、自分の生活が優先されてしまうのって、致し方ない部分はあるのですが、最近の動向を見るに、ちょっと行き過ぎかな?と。
距離感ミスっているわけです。
私がこのブログを含め考えているのは、「社会は私たちの外にあるのではなくて、既に一人一人の中に埋め込まれている、かのように考えられるようにならないか?」ということです。
社会を変えるつもりで自分を変えようと試みてみる、感じでしょうか。
今後可能であるならば、より具体的に時流に沿った社会問題なんかも扱えたら、とも考えています。難しいですが、やってみないことには、個人の内面のお話にしか過ぎない、ということで、社会分析にも、自己啓発系のお話にも勝てません。勝ち負けではないのかもしれませんが、頑張ります。