「恩寵を導く」という目安
「このブログについて」にも書かせていただいている通り、ここでの狙いは、「我がこととするとちょっとプレッシャーがきつくて、ついつい無理しちゃったり、逆に逃げちゃったりしがちなことどもを、別の誰か何かに想像上うっちゃることによって、なるべく落ち着いて考えてみましょう」ということ。
肝心の中身=無理しちゃったり逃げちゃったりしがちなことどもって??
- 考える方法
考える方法において自分自身にかかるプレッシャーって?
- 自分が置かれた状況に適しているか?もあるでしょうし、内容・事実関係が正確かどうか?という懸念もあるでしょうし、何よりも考えた後どうするか?となると行動がついてきますので、それを想像したときに、当然現れる他者からの視線もあると思います。
そういったもののために、自分で「こっちの方が本当なんだけど」と感じることが多少なりとも加工されがちだったりします。
多少ならよいのですが、小さいズレも都度補正がなされないと、自分の「より本当」が抹殺されてしまいかねません。それは事実を知りたい場合、そのための情報がねじ曲がっていたりして困る。また、一人一人の心理面でも、「自分の本当」を抑圧し過ぎるのはあまりよくないのではないか?と。
それなら、一つ、自分のことではなくて、他の人にもあるであろう「より本当」という感覚。こいつを拾ってあげるつもりで、考える方法というものを見てみてはどうか?ということです。
なのですが。。。
すでに10以上ポストしてみて、どうもフォーカスが甘い感じがしています。
そこで、一つ、何を目指しているのか?目標のようなものを設定してみることにしました。
それが
「恩寵を導く」
です。
「より本当」を拾い上げるように考える方法を練ることによって、「恩寵」を導く。
分かりやすく言えば「やさしく」考える。そして行動するようになる。しかもみんなで。。
ということなのですが、あくまでも「恩寵」ですので、計算は難しいという認識です。
ニュアンスとしては、
人事を尽くして天命を待つ
という感じです。
天命というと全く運任せ、神任せ、のようにも理解できますが、ともかくまずは実際に触れ合う人々の善意に賭けてみる、ということに重点があります。
まあ、とある人の考えや行動に、いろんな人がどのように反応するか?は完全にはコントロールはできないわけですから、結局運頼み、神頼みではあるのですが。。。
人智ではコントロールしきれないものがあると認めつつ、だからといって「じゃあ何でもありでええやん」みたいに投げやらない。
やさしさというのは、そういう「ほたらどーせーっちゅうねん!?」みたいなどうしようもなさに思いを馳せてみることで生まれやすくなるのでは?と考えています。