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いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

分けて考えることの効用と留意点

 

私がこのブログで書いていることは、あまり具体性がなくて、イマイチしっくりこない、との声を頂いているわけではないんですが、私自身常に気になっています。

あ。これならいい教材になるのでは?と思い、上記のツィートを引用させていただきました。

「宗教的チャリティ」と「世俗的チャリティ」

チャリティを、この二つに分けて考えてみることで、新たな見方が得られる好例。

慈善活動というと、そんなにご立派なら持っているもの全て捧げるがいい、なんて乱暴な言われ方をされるのもしばしば耳にします。

宗教的な方の捉え方でいけば、チャリティとは、個人と神様の間の問題で、個人は自分の神様と相談してできる範囲を決めても何ら問題はない。

他人がするチャリティをとやかく言うのは筋違い。

チャリティを自分はできないと思えば、神様とお話して、やりませんと決めればいいこと。

 

「世俗」という言い方がピッタリくるとは必ずしもいえないのでは?とも感じますが、昨今の私たちの常識からすると、権利、責任、義務というのが常に頭にありますので、神様とお話して決める、というよりも、法制度とは言わずとも、世間との兼ね合いでモノコトを考える傾向が強くなります。

私の収入と彼の収入を比較するなら、彼はもっと寄付できる、すべきはずだ。

チャリティは慈善なので、それがあることで、却って人間関係がギスギスしてしまうのはもったいない。というか、「世俗」の考え方ばかりだと、慈善の行動が(少なくとも心理的に)妨げられてしまいかねません。

ここは思い切って「宗教的」な方で理解することにしよう!

というように、ちょっと整理しやすくはなります。

が。

行動が伴うとなると、「宗教」と「世俗」とはきれいには分けられません。

ただお祈りするだけでも、それが日々の習慣になっている人にとっては、「世俗」へのお祈りも含まれているはずです。

神様なんて普段は意識していなくとも、数ある「世俗的」判断に基づく行動の中で、ふと「祈りの気持ち」が込められていないとも限りません。

分けて考えるというのは、「どう分けるのか?」の定義が問題とされやすいですが、 私は、分けてみて、分かった後どう考えるか?も同じぐらい大切だと考えています。

「宗教的」のように、神様以外の他者を排して、自己と向き合うことも大切ですが、「世俗」に生きている自分、他者と完全没交渉は不可能、なんてことも忘れずにいられるとよいですね。

まあ現代は「世俗」を生きるのにかなりのエナジーを割かれてしまいがちですので、「宗教的」の方の大切さについてより注意を向けるよう意識した方がいいのかもしれませんが。