分けて考えることの効用と留意点
宗教を悪く思う人はそれを詐欺だと考える。逆に宗教を良く思う人はそれをチャリティだと考える。だが、世俗のチャリティと宗教のチャリティは性格が異なるのがふつうだ。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
たとえばここに病気になった人がいるとする。世俗のチャリティの目標としては、この不幸な人のマイナス面を他の人々が埋め合わせて、生きている間にできるだけ算術的平等にもちこもうとするだろう。金銭であれ、時間であれ、介護であれ。完全な均衡の達成が無理であっても原理的にはそこを目指す。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
宗教的チャリティの場合は、困った人に親切に尽くすのは善いことではあるが、所詮人間のできることには限界があると割り切っている。慈善はやればやっただけいいのであるが、不完全だといって責めるのは筋が違う。結局、病気は病人と神との問題、慈善もまた慈善家と神との問題、両者は断ち切れている。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
世俗の考え方では、どうしても解消し得ない不平等に対して、なんとしても平等に持ち込もうとして無理をしてしまう。だからシステムとして破綻する恐れがある。うまく行っている間はいいが、世の中がひっ迫してくるとそうもいかない。この世の内部での予定調和をめざすのは端的に言って不合理だろう。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
私がこのブログで書いていることは、あまり具体性がなくて、イマイチしっくりこない、との声を頂いているわけではないんですが、私自身常に気になっています。
あ。これならいい教材になるのでは?と思い、上記のツィートを引用させていただきました。
「宗教的チャリティ」と「世俗的チャリティ」
チャリティを、この二つに分けて考えてみることで、新たな見方が得られる好例。
慈善活動というと、そんなにご立派なら持っているもの全て捧げるがいい、なんて乱暴な言われ方をされるのもしばしば耳にします。
宗教的な方の捉え方でいけば、チャリティとは、個人と神様の間の問題で、個人は自分の神様と相談してできる範囲を決めても何ら問題はない。
他人がするチャリティをとやかく言うのは筋違い。
チャリティを自分はできないと思えば、神様とお話して、やりませんと決めればいいこと。
「世俗」という言い方がピッタリくるとは必ずしもいえないのでは?とも感じますが、昨今の私たちの常識からすると、権利、責任、義務というのが常に頭にありますので、神様とお話して決める、というよりも、法制度とは言わずとも、世間との兼ね合いでモノコトを考える傾向が強くなります。
私の収入と彼の収入を比較するなら、彼はもっと寄付できる、すべきはずだ。
チャリティは慈善なので、それがあることで、却って人間関係がギスギスしてしまうのはもったいない。というか、「世俗」の考え方ばかりだと、慈善の行動が(少なくとも心理的に)妨げられてしまいかねません。
ここは思い切って「宗教的」な方で理解することにしよう!
というように、ちょっと整理しやすくはなります。
が。
行動が伴うとなると、「宗教」と「世俗」とはきれいには分けられません。
ただお祈りするだけでも、それが日々の習慣になっている人にとっては、「世俗」へのお祈りも含まれているはずです。
神様なんて普段は意識していなくとも、数ある「世俗的」判断に基づく行動の中で、ふと「祈りの気持ち」が込められていないとも限りません。
分けて考えるというのは、「どう分けるのか?」の定義が問題とされやすいですが、 私は、分けてみて、分かった後どう考えるか?も同じぐらい大切だと考えています。
「宗教的」のように、神様以外の他者を排して、自己と向き合うことも大切ですが、「世俗」に生きている自分、他者と完全没交渉は不可能、なんてことも忘れずにいられるとよいですね。
まあ現代は「世俗」を生きるのにかなりのエナジーを割かれてしまいがちですので、「宗教的」の方の大切さについてより注意を向けるよう意識した方がいいのかもしれませんが。