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いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

グルグル回ります

言葉 日常の理論 アナロジー 真似

回します。このブログ。まあネタがそれほど豊富でないってことでもあるのですが、同じようなことを繰り返し、ちょこっとずつでも違う言い方をしてみる、というのも結構大事かな?とも考えているのです。

 

真似のことをちょっと話したので、私たちが世の中を分かる仕組みに戻ってみます。

過去記事はこちら。

hamaokahlisboa.hatenablog.com

hamaokahlisboa.hatenablog.com

hamaokahlisboa.hatenablog.com

私たちはモノコトを動きで捕えます。

アクションの意味が分かる。という感じです。

ほら。真似とつながったでしょ?

真似ができるということは目に映る動きが全くわけわからないと難しいですね。

他方、無意識で真似るということも起こります。

特に赤ん坊や小さな子どもが親の真似をしようとするのに、動きの意味まで理解しているとは思えません。

どちらかというと、真似ながら意味が段々と分かってくる感じではないでしょうか?

真似というのも、意識と無意識の狭間にあるといえるでしょう。

 

ところで、私が「モノコトの、動きによる理解」に拘るのは、日常使っている言葉がどうやって機能しているのか?を説明するのに適していると考えているから。

では日常使っている言葉が機能する仕組みとは一体どういった風なのか?

基本はパターン認識

でも言葉というのは一語一語に意味があるので、どうしても一語一語の並べ方に関わる規則の方に注意が向きます。これはパターン認識というよりも、ルールによる統制。とあるルールに従って並べられた言葉(文、文章など)の意味が決まるようなイメージが強いです。

そうなると、実は、私たち一人一人が感じていることなど、言葉のもととなっているであろうセンセーションと、言葉とが切り離されてしまうのです。具体的には、感じたりするのは認識や感知のプロセスで、言葉は言葉でとあるルールに従って組まれるプロセス、という別々のものになってしまうということです。

別々となると、言葉ありき、で、そっから遡るように分析されるのが感知や認識のプロセスということになります。結果、脳みそのどの部分が言語運用に関係する、、、というような分析になります。

これだと、多分永遠に日常の言葉の機能の仕方は分からないでしょう。 だって意味とか分からなくても子どもって耳で聴いたまんまを真似て言葉を段々と覚えていくじゃないですか。つまり、言葉にだって無意識的な方の真似があって、それはまず言葉のルールに従っているというよりも(ルールが脳みそかどっかに組み込まれているのではなく)、ほぼ反射的に真似をして、そうして得られた目に映る、耳で聴いたモノコトに関する情報が、繰り返しなどによってパターンとして認識され、より画一的なルールに従って組織可能な言葉に発展していっている、と考える方が自然だと思うのです。

 

真似ってともかく体のどっかが動くじゃないですか。言葉とか歌にしても、口とか腹筋とか肺とか。そうしたボデーの動きに関する情報なんかもひっくるめて言葉なんてものもできてきているんじゃあないか?と考えています。

何故そのような考え方をする必要があるのか?

  • あまり決まりきった起源があると思い込み過ぎない。
  • 偶然性をもっと温かい目で守り育てる。(目の敵にしてより予測可能なものばかりを追い求めない。)
  • 冒険心を捨て去ってしまわない。(理屈では不確かに思えても、時に直感に賭けてみるっていうのも選択肢としてはキープしておく。)
  • 自分自身の細部(気持ちだけでなく体のコンディションも)への注意力を上げる。しかも楽に楽しむ気持ちで。

まだまだあるんですが、ざっと、上にあげたようなこと、日常のマネジメントに取り入れられれば、もっとリラックスした世の中になるんじゃあないか?今多くの人がなんとなくデフォルトと考えているような考え方、規則や法則をめっけて予測性を上げる、目に見える証拠に基づいて正誤、善悪の判断をする。大事ではあるんですがなんか 窮屈な感じがするんですよね。私たちってもっとアバウトじゃん?みたいな。そういう普段着の気持ちを無視せずに考えることが大切なんだろうと私は信じています。