いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

つながりやすさ

人と人とはつながりやすい。

つながりやすさって満遍なくそして穏便平和な世の中にはつながるとは限らない。

ガブリエル・タルド(1843-1904)という人がいました。

国が現在のカタチ(いわゆる主権国家)に収斂し始める時期に、統計・計数による管理の威力にいち早く気付いた人です。

統計というと、現在では客観的指標というのがなんとなく固まっていて、例えば漠然とした「人の気持ち」が算数でいうところの足し算のように積み重なっていく様を計算しようとはしない。「苦しい」→「生活」→「食費の家計に占める割合」みたいな感じ。

悪くはないんですが、そもそもの「苦しい」というような漠然とした感覚だって伝染しますよね?え?気のせい?

そうでしょうか?

タルドさんは模倣(imitation)と言いましたが、数数えて管理するにしても、気分とかが伝染していく様って無視しちゃあ正確に現実を把握できないんではないでしょうか?

最近、信用に足る情報とは?とか、真実とは?というのが盛んに議論されるようになってきているとおり、客観的事実を確たる証拠で証明する、ということの限界、または、弱点が露わになってきているように思えます。

これまで多くの人が客観的事実と思い込んでいたものが、実はほとんどメディアや個人の名前頼りだったんだ、ということが明るみになった。きちんとした手法で集められた証拠をきちんと分析したものであったとしても、いや、そうであればあるほど、多くの人々の生活感覚からすると、なんだか縁遠い情報ばかり、知りたいことが幾重にも解釈されてどうもピンと来ない。まあなんしか、とっつきにくくってよう分からん。

つまるところ、多くの一般庶民にとってみれば、客観的な事実なんてはっきりいってしまえばどうでもよくて、勝手に信用に足る情報、必要な情報の仕分けはしている、ということなんですね。

で。まだ引き続き、賢げな人たちは「そんなんだからダメなんだ」ってぼやき続けているようなんですけれど、私からしてみれば、そんなん言ったって普通の人が普通の感覚でやっちまうことを否定はできないんじゃないか?って思うんですよね。

逆に、社会全体への影響の大きさを考えると、そういった普通のやり方をカバーできていない方法にこだわって対策を練らないのは、怠慢なんじゃないか?いや、庶民をただの頭数と見て、恣意的にコントロールしちゃえってことしてて、全く悪びれもしないなんて、非倫理的だし、不道徳を働いてさえいるんじゃないだろうか?

本来つながりやすい、つながらないと生きにくい人間が、偽情報を信じて分断しちゃったり、ってのは大多数のバカな人間のせいじゃなくて、「バカ」にしといてそいつらもろくにコントロールしきれないバカのせいなんじゃないか?

ほとんど意識されることがない真似るということの果たしている役割、それによって、客観的事実なんて軽く吹っ飛ぶぐらいの多くの人々が動員されもしてしまうこと。今一度丁寧に見直してみる価値はありそうです。