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いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

オリジン(起源)は大事

起源というとちょっと大仰に聞こえますが、何事につけ始めが肝心ともいわれます。

始業式にせよ、新職場第一日目にせよ、フレッシュな気持ちで始められれば、なんだかいいことが待っていそうな気もしてきます。

そのように明確に始めを意識させられるケースではなくとも、始まりというのは意外に大事で、意外にもこだわっちゃったりしています。

何故無意識でも大事にしている、なんてことが言えるのか?といいますと、考えるにつけ、喋るにつけ、どこかに始点がないと人間って何もできないからなんです。

例えば、レジのバイトを初めての人に教えるようなとき、まさかPOSのシステム全体の説明から始める人はいないでしょう。どこから始めるのが常識的に効率的で効果的か?というのは、教える方、教えられる方双方であらかた合意されているのが普通といえます。

面白くないですか?

どうやってお互いに適当な始点が大体重なるのか?

常識?

そうですね。

でもすんなり常識が通じ合う時ほど、案外権力関係が強く働いているもので、特に下の者が、受け入れちゃっているんですよね。

かといって何でもかんでも受け入れを拒んで革命を起こせ!なんてことは申しません。

ただ、どっからを適度な始点とするか?というのは結構なせめぎ合いがあるものだと理解しておくことはきっと世の中を渡っていく上でためにはなると思います。

そうなるわけですが、

 

私たちって、案外何も分からないんですよね。単独では。

でも分からないまんまだとどうしようもないので、分かろうとはするわけです。

上手くいってそうに見える人を真似る。真似るのと観察はほぼ一体。だから別に真似るつもりもない純粋な観察だってじきに始める。学校行ったりして教科に沿った学習の仕方なんて知れば、応用して自分なりに本読んだり勉強もする。

まあでも、どっかの誰かが固めてくれた方法がないと何にもできないことに変わりはない。

自分独自のオリジナルなんて、考えたりする方法に限れば何もない。

だから一生懸命「いい方法を見つけた自分」の独自性を主張もしたがる。

別に方法なんて借り物なので、独自性とかどーでもいいと私は思うのですが。

必死でオリジンの正当性を競い合うのは、本当は、確かに系統立てて方法が確立されてきているか?の検証のためなんですが、結局始まりに広く一般に認められているような正当性がないと、個人個人が責任を負わなくちゃなんないのでそれが面倒なだけなんですよね。

折角の知的資源を、過去の遺物の検証に充てる。まあ真面目に検証に当たる人々ばかりなら問題もないですが、大多数の人って傍観してタダ乗りするだけなんですよね。

それが悪いってんじゃなくて、まあタダ乗りさせてもらってる以上感謝はしないとね。ということなんです。

なぁんだ。感謝なんて辛気臭い。と感じる方も少なくないと思います。

でも、やっぱり世の中義理と人情といいますか、持ちつ持たれつの感覚が失われてしまうと、途端に寒々しくなると思うんですね。

なんだか近頃生き辛い、先の見通しが明るく思えない、っていうのも、個人個人が重責を担わされて、却ってそれぞれ責任逃れしても許されるような隙間探しに奔走してしまっているからなんじゃあないだろうか?

いいんですよ。

もっと適当で。

重責のうちでも、自己の出発点の正当性に関わる物語りづくりっていうのが、あまりにも非現実的といいますか、「それ。ウソやん?」ってのが丸わかりなのに、誰もそのセン(合理的科学的実証的に完全) で語るのを止めようとしない。結果、勝てるのは一部の人だけで、しかも、別に完全に客観的に正しいと証明された物語ってわけでもない。負けた方は、よって勝者をリスペクトなんてするわけない。だけならまだマシだけど、「ようし。自分はきちんと現実を語るぞ!」なんてこともするわけない。

このどうしようもない泥沼を抜け出す解決策としては、 まず、私たちって、簡単なお話でも何か出発点が合意されないと何一つまともなことも言えないんだって知ることだと思うんです。

それを知らないと、はやりだとか時の勢いだとかでウワァーって多くの人が流されやすくなってしまう。とりあえずついてかなきゃ何もできないし、不安で仕方なくなるから。

「始め」の正当性争いの深刻さを理解できれば、なんでウソつきすぎない方がいいのか?だって分かってくるし、まごついている人がいれば手を差し伸べることだって自然とできるようになるんじゃあないか?

完全無欠なアイデンティティが確立されてなきゃ喋れないなんてことあるわけないですし。

そもそもの出発点として、私たちの日常のやり取りって、「始め」適当、おいおい整理って具合に進んでいくものなんだと。

であるからこそ、修正しやすくするように嘘八百は並べない、自分だけが分かってればいい、なんて風に事実ではあっても語らない。

そんな風にしてよりやさしい世の中ってできていくんじゃあないかって夢見ています。