いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

気付いていないことは沢山ある

あまりに多すぎるので一つ一つ暴いていく、というのはあまり意味がないように感じます。意味がないどころか、「ヘンっ。だからどうだってんだい?」って反感を買っちゃうかもしれません。図星というのは結構嫌なもんです。

「だからどう?」

これを大事にしなければ、と言い聞かせる日々です。

 

世の中にはいろいろな作法に従って生きている人がいます。

同じ「利他的行動」という言葉でも、やっている本人がイメージしていることは違うかもしれない。

  • 「発言の責任を一切取らないわけではないけれど、とりあえず自分の意見を表明すること自体が、自分が所属する組織・グループへの貢献である。」
  • 「いい加減なことを言って意見をまとまりにくくするぐらいなら口をつぐんでおく。」

前者には、グループへの貢献とまで思っているなら、せめて発言すること自体に含まれている、自分自身の利益についてもより深く考えてもらいたいところ。 

何故なら、何か発言できる、行動をとることができる、ということによって、あなたは都度生まれ変わることができるのだから。

 

生まれ変わるといっても、イメージとしては前進や成長というより、自身を縛っているものからの一時的解放、という感じ。

なんだそんなわかりにくいこと、と思うなかれ。人間適宜解放されることでもって視野が開けるもの。開けたならばルーチンの中にだってイノベーションの光が見えたりもする。実直に耐え忍ぶことも大事かもしれないけれど、やっぱり苦しいばっかりじゃろくな事思いつかない。発言こそが貢献というのなら、中身も伴っていた方がいいに決まってます。

 

後者の方は過大な利他的行動への評価から改めてもらいたいところ。自分の気配りはほぼ間違いなく他者のためになっているはずだ。。。って傲慢。じゃないですか?

でも抽象的な他者との関係より、自分自身に何ができるか?をもっともっと冷静に見てもらう方がいいかな?

どうしても他者のことが気になるんです。気になるというよりも本気で自分以外の人たちが幸せにやっていってもらいたいんです。

そうであるならば、いいでしょう。

自分以外の人がどうなれば幸せと感じるだろうか?

考え続けてください。

色々面倒なので消えさせてもらいます。

考えるのやめちゃってもその人たちの幸せは願っている。

なんていい加減な言い逃れはやめましょう。

他者のためというからには相応のコミットメントが求められます。

コミットしないということは、それは他者のためではなく、自分のため。でも本当はなくて、どっちも放棄するということ。

 

そうやって自他の逃れられない連関を知ることです。

さすればとある行動をとれる、発言ができることがもたらしてくれる「生まれ変わり」の意味も益々深く理解でき、感謝の念も自然と湧いてくることでしょう。

利他的行動とは、やはり感謝の気持ちからではないでしょうか。