善いも悪いもない
以前言っていたことと矛盾しているようですが、気付きって、割りと強めの感情によって呼び起こされることもあると思います。その気付きを呼び起こすことになる感情の中でも、怒りであるとか悲しみであるとかは、できれば感じないでいたい、という意味で否定的にとらえられることも多いと思います。でも、怒りや悲しみに限らず、とある感情を引き起こすようなモノコトに良い出来事、悪い出来事の区別がつけられたとしても、感情が湧き起こってしまうということ自体には、善いも悪いもないのではないか?と思うのです。
感情的になる、というのはいっぱしの大人の美徳とは言えないでしょう。でも、人間は感情の動物ともいわれる通り、たまに抑えきれないような強い感情を覚え、それを他者から明らかに分かる形で露わにしてしまうこともあります。
世の中に賢い人は沢山いるようで、一般的には否定的にしかとられない感情も、抑え方、表現の仕方がある、とこんなに簡潔に説明してくれているんですね。
ひとからひどい目に遭ったら、「しかたない」とか「まあいいや」と思うことをやめること。そして、自分の中にうごめく不快感から身を振りほどいて脱出しようとせずに、そこになるべく長く留まるようにすること。「みんな私が悪いんだ」とけっして思わないようにすること。『怒る技術』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2016年11月21日
これもまた一種のマインドフルネス。「怒らない」のではなく「正確に怒る」こと。過度に自分の心の反応だけを観察して、問題を不正に自己内化しないこと。(最後の点はニーチェの『道徳の系譜』の一つの論点でもある。) https://t.co/k4Z2iTl6JP
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2016年11月22日
「正確に怒る」とか、「問題を不正に自己内化しない」っていいですよね。
いい、といいますか、何かと感情の問題で悶々としがちな私たちに道標を示してくれているように感じます。
怒っちゃいけないわけではない。
感情を抑えようとするのだって引き続き大切なマナーであり続けるけれど、専ら自分自身の感情やそれへの対応のみを考えていてはダメで、他者との関係や、実際に何が起こったのか?も正確に分析するべきだ。独りよがりは無責任。
感情をコントロールしきるなんて、とりあえず豪語しちゃダメですよね。実際どんなに立派にできているとしても。