いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

分かるか分からないか3

その場その場での100%絶対厳密なパターン照合は、私たち人間個人個人の能力では、原理的に不可能であるにも関わらず、私たちはどうして白黒つけたがるのでしょうか?原理的に不可能なことで争うなんてバカバカしいと思いませんか?

なんて言っているその言葉からして原理に反してしまっているんですが。。。(100%は無理なのになんで不可能って言い切れるの?)

つまり、無限ループ。

私たちは普段はほぼ全く意識していませんが、どうひっくり返ったって抜け出せない輪っかの中をグルグルグルグル回り続けさせられているのです。

この事実が人生のつらい部分に直接つながっているのだとは私は思いませんが、遠因にはなっているかもしれません。結局のところ、何が起きるかは分からない、ばかりか、「こりゃ絶対の絶対!」って信じていたものさえ覆される可能性もある。中々安心はできないわけです。

白黒つけたくなる気持ちは、気付きの時点で区分している「善」「悪」とも深く関係しています。気付いた以上一旦は何か「いい方」を感じているはずで、できればそれが長く続いて欲しい。アバウトではあっても、そういう比較的安定的に継続するデータは時々刻々蓄積されていっています。ならば、その人なりに、より意識的に、であるからして理屈が合うように、「このように理解しておけばまあ安心だろう」というようなモノコトの理解とその立て方を築き上げていっているはずです。多分そうやって出来上がってきたのが、現代の科学であり、合理的思考というやつなのでしょう。

散々っぱら私自身お世話になってきて、今もこうしてブログなんて書いていられるわけなのですが、どうも何かが抜け落ちているような、落ち着かない気持ちが抜けません。

そのルーツとは。

非常にパーソナルなことなんですが、私は物心ついたころから、大学出るぐらいまでは、専ら自分の気持ちと付き合っていたような気がします。当然親姉弟をはじめ、学校に行けば先生や同級生もいますので、それなりに付き合うわけですが、気持ちが強いんだか弱いんだかよく分からないのですが、まず「うまく付き合えるか?」というのが物凄く気になり、そういう風にウジウジ気にする自分が嫌というか、「なんとかしてウジウジしなくならないか?」と。まあそれ以外でも色々主に自分の性質のせいでいやぁーな気分を招くわけですが、ともかくいやぁーな気分を何とかなくしたいと。そんなことばっかり考えていた気がするのです。

それが大学出るころから社会人始めて、フォーカスが変わったんです。何故か。

他の人たちは、性格とかの違いで私のように自分のウジウジとかが気にならないんではなくて、”自分の気持ち”について考える方法を知らないんじゃないか?と。

例えば、「あなたはあたなのままでいい」と言われたとします。どうしますか?多分あなた自身のこと、主に特徴であるとか属性であるとかを考えるのではないでしょうか?「ありのままのわたしってどんな感じだろう?」

例えば、「あなたって本当に八方美人ね」と言われたら?自分のどういう振る舞いが八方美人に見えるんだろうか?と。

でも、そのように言われた時に感じる気持ちについては、敢えて気にしないようにしているのか?別に必要ないと判断しているのか?たまたまなのか?色々理由があるのでしょうが、ほとんど考えられていない気がするんです。専ら皆に分かるような課題に取り組もうとする感じです。

コレかな?と。最近になって漸く言語化の手掛かりらしきものを見つけたのです。

科学的合理的な手法や考え方、それらが創り出すアイデアから抜け落ちているもの。

それらを起動させているはずの気持ち。

今でもすごく気になっています。なんで時々刻々感じる気持ちって無視されているかの如く忘れ去られてしまうんだろう?特筆すべき関連する出来事もないという場合は、気持ちなんて流されていっても仕方ないとして、上の例で挙げたような言葉が自分に対して投げかけられれば、何か感じるだろう。嬉しいとか、うざいとか、、、。

その後いろいろと考え始めるにせよ、きっかけは気持ちのはず。

それを語らないのは人々との関係性が色々影響するでしょうし仕方ないとしても、分析したりディスカッションを進める上で、自分自身が感じた気持ちってのがないと、なんだか通り一遍のお話で終わってしまうような気がするのですが、そんなことは世間一般ではどうやら別に大したことでもないらしい。

しかしです。

世に悩み事とか、クレームとか、ああーどーしよー?どーしたらいーかなー?って話題は尽きることがない。私たちを動かしているものって、中々形には表しにくいけれども、やっぱり気持ちなんじゃないのか?

でですね。

気持ちが形にしにくいとはいったって、わりと頻繁に遭遇するというか、付き合わされる感情って無限に種類があるわけではないと思うのです。ならば、そういうしょっちゅう出くわすヤツだけでも、なるべく会わないで済むように、会っちゃってもなるべく穏便に過ぎ去っていただけるように対策を講じておいてもいいんじゃあないか?いろいろ起こる問題らしきモノコトって中々予測しがたいし、思いもしなかったコトが起こったとしても、いやぁーな気持ちへの対処の仕方が分かっていた方が、より分析的にコトの方に当たれるのではないか?と。

科学的実証的な分析に気持ちなんて要らない?多分実験室でやるようなやつはそうでしょう。

でも私たちは日常生活で遭遇するあれこれも、そんなノリで分析しないといけないって、知らないうちに思い込んでいるのではないでしょうか?主観を挟まず、客観的事実のみを取り上げる。さすれば、必ず正しい答えはあると。

個人個人がそう信じて追究するのは構わないと思うのですが、人との関わり合いの中でお互いに押し付けあうというのはやっぱりやめといた方がいい。繰り返しますが、個人個人が独力で「これは絶対」とは言えないわけですから。

また、ニュースや身の回りで起こる出来事などを過たず分析できているとして、そうした正確な理解というのは、自分だけではなくて周りの皆が共有してくれていなければそれほど意味がない。けれども、気持ちの面に意識が向かないでいると、「なーんでこんな当たり前の事実を正確に(訳分からん思い込みなしに)理解ができんのや?」って思ったりするだけで、周りの人に与えてしまうマイナスの影響になんて考えが及ばなくなってしまう。そうなってしまうことで、間違っていないことなのに、ただそれを口にするだけで、なんだか疎ましく思われたり、きちんと聞いてもらえなくなったりもする。

なんとなく現在の科学不信であるとか、何が事実やら分からない、という混沌とした状況が思い起こされないでしょうか?

誰もが「うん。それは確かに。」と納得すべき事実というのはあり、世の中を円滑に回していくためにはそうした情報はとても大事です。

でも、これは誰か一人とは言わずとも、ごく限られた人々だけが正確に理解していて、だからその人たちのお手柄だ、というように余計な囲い込みや権威付けをしてしまっては、却って社会的損失に繋がってしまうのでは?と感じています。

賢い人もそうでない人も等しく気持ちは持っています。

そこを忘れないことが道徳の素なのではないか?と考えています。気持ちについて拘るのがどうも生産的でもないし憚られる、という人もいると思います。でも、それって道徳的にも大事で、日々の人間関係で守り維持していった方がいいルールとかマナーとかにも関わること、と理解できれば、もっと大手を振って気持ちってものに拘ったっていいんだ、と思えるのではないでしょうか?次回以降そのあたりについて話してみたいと思います。