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いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

分かるか分からないか2

基本原理 厳密さの追求 比喩的推論 交換可能性 交渉術 日常の理論

アバウトさは意外と私たち人間の強みなのではないか?という話をしました。でも、現代の世の中は、どちらかというと厳密さを求めているようにも感じます。科学にしても、法律にしても、仕事上の手続きにしても。どれをとっても、現代社会を円滑に運営していくためには、誰もが誤解のないように、厳密に正確に取り決めて理解することが大切です。

やはり、アバウトから入ったとしても、徐々に厳密さを増していく。私たちの理解もそのように変化していくものなのでしょう。少なくとも理想的には。

現代人というのは概ね、理数系の知識に畏敬の念を抱いています。人文系の知識よりもなんだか役に立ちそう、誰もが同じ解答にたどり着けそう、したがって主観的な解釈の違いなんてものが邪魔する余地がなさそう、スッキリハッキリ。でも結構操りにくい。この寄せ付けなさ振りもなんだか魔術に近い神秘感を醸し出しているようです。

人間は理屈で考えるのが実は苦手、と以前いったとおり、数学や物理は多くの人が高校を出るころには触れなくなってしまいます。でも理屈で考えるのをすっかりやめてしまうわけではありません。なんのことはない事務手続きだって、理屈の合わないステップを滅茶苦茶に踏んで、偶然遂行されているわけではありません。

理屈で考えるのが苦手なわけは、私たちの日々の感覚がそもそも比喩的推論によって駆動しているから、ということもありますし、それと関係しますが、理屈で考えるというのは基本的に後追いの作業なのであまりウキウキしない、ということがあります。アバウトでも困ってないんだからいいじゃないか。気持ちはわかりますが、アバウトは所詮アバウト。リスクを読むにしても、簡単な計画にしても、想定外のことが沢山起こります。やり直しがきくような想定外ばかりならやり直せばいいことですが、取り返しのつかないコトだって起こります。やっぱり、アバウトで放置しておいてもOKだ、と大見栄は切れないわけです。

では、みんなで数学者や論理学者張りに論理的にモノコトを考えられるようになる、なんてことを目指すのではなく、アバウト志向と論理志向の関係を知ることで、フツーの人同士のやり取りはまあまあ理屈に適ったようになるのではないでしょうか?そう。誰だってどっちかだけでいいとは思ってないはずなのです。

どんな時に厳密性を求めたくなるのか?はケース・バイ・ケースなので、とりあえず厳密性ってどうやって上げていっているのか?を考えてみましょう。

比喩的推論はパターンの照合で進められています。厳密性が高い、というのはパターン照合の結果がばっちり合一する場合。入れ換えちゃってもどっちがどっちだか分からない。でも「言葉のようなもの」という複数のデータから成るもの同士がばっちり合一しているか?というのは、時々刻々照合作業をしている最中には100%確実には分からない。あくまでも一人一人がやっていることは推論だから。

ということは、高い厳密性を狙う時には、とりあえずめっちゃ似ているものを、仮に同一としておいて、そうすることによりいずれ判明してくるであろう不整合を探し、不整合が探知出来たらその成り行きを検証する、、、、という方法を繰り返すことになります。

まあ通常はそもそもそういう努力を要せずとも、めっちゃ似ていて、入れ替え可能と考えてほとんど問題ないものがどんどんと溜まっていくので、アバウトで十分通常の生活は送ることができます。事実、何年たっても肉眼ではほとんど変化が分からないモノ(石とかプラスチックのコップとか)は、ほぼ同じ刺激を目に送ってきているし、ちょっとずつ変化するのは分かるモノだって、川とかお母さんとかは、同一視しておいてもそれほど問題はない。また、赤リンゴ、青りんご、黄リンゴを、近所のスーパーで見ようが、リンゴ農園の木になっているのを見ようが、異国の市場で見ようが、ぜぇーんぶ「リンゴ」って言ったところで「厳密に言うとリンゴではない」なんてことは起こらない(厳密に定義してもリンゴ)。似たようなパターンというのはそれぐらいの類似度です。こうした、多少の変化や置かれた場面の違いをものともしない比喩的推論の威力(モノをわりと正確に定義できる力)というのは、もっと掘り下げて見てみても面白いので、また別の機会にでも扱いたいと思います。   

ところで、厳密志向かアバウト志向かの関係性について。

既にお気づきの読者もおられることと思いますが、「言葉のようなもの」で比喩的推論をしている私たちに、「これは絶対100%間違いない」なんて言えるような厳密性なんてあるんでしょうか?

ないですよね?

実際科学者が日夜やっていることだって、何が大変って、自分で立てた仮説ならまだいい方で、一応科学者間でお墨付きをもらえた発見だって、自分で反証可能性がありはしないか?と検証し続けることなんですから。

そこまで厳密性に実直に向き合っている科学者だって絶対100%だなんて言えないわけですから、私たちの日常のやりとりでそんなこと言えるわけありませんよね?理屈では。

でもお互い絶対100%(正しい/間違い)を主張し合うなんてしょっちゅう。

これはどういうわけなんでしょうか?

厳密性の意味が違う?

そうでしょうか?

意味の違いが分かっているのであればまだ修正も容易でしょう。

そのためにも、次回は何故人は100%絶対とは言わずとも、はっきりと白黒つけたがる傾向があるのか?について、今回のアバウト志向と厳密志向の関係から見えてきた、100%絶対厳密に入れ替え可能と言えるかどうか?の重大さ(論理的には検証を待たずには言えないのですが)について考えていきたいと思います。