いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

自然の常態

「自然の常態は競争である」

これを見て物凄い嫌な気分が湧いてきた。

色々と考えたのだけど、「自然」という言葉からして人間の願望が含まれているな、と感じる。

さらに「常態」とくれば、ノーマルですよ。ノーマル。滅茶苦茶注意が必要な言葉ですよね。

人間にとっての最大の課題は「あるがまま」をどうすれば「あるがまま」認知することができるか?

これは哲学や科学の成果として「不可能」であることは分かっています。

とはいえ私たちは生きていかなければなりません。生きていく中で出くわす様々な物事は、あるがまま知った方がより安全であることは間違いありません。「あるがまま」を認知することは「不可能」だからといって、全く「あるがまま」を無視することなどできません。「不可能」ではあっても、いや、「不可能」であるからこそ、様々な方法が試み続けられるべきなのです。

 様々な試みをするときに、私が大切だと思うのが、「やさしくあれるかどうか?」

他人に親切にできるか?とか、弱い立場に立って考えられるか?というようなことではありません。これらは大切なことですが、いつでもどんな場合にでも、は無理です。つまり、ちょっと高度過ぎるのです。

試みは様々であるべきなので、コントロールを最優先に考えるべきではありません。どちらかというと、試しつつも、「絶対はない」と自覚しておいて、タイミングが訪れればいつでも見直せる状態にしておく、という非常に消極的に見える、内心の信条のようなものです。

 「競争がノーマルな状態なのだから競争を否定するのはおかしい」

確かに、「競争」を否定してみせたところで、人はやさしくはなれません。何故なら、言っている本人だって、時と場合によっては「競争」して勝ち抜いたりしてしまうからです。もっと言えば、「負け続けなければならない人」にとっては、それが「競争」であるかどうかなんて全く関心など持っていられないことです。

「競争」という言葉は大きな誤解の素となります。それは、あたかも主体性・自律性を持つ者同士の関係性であるかのように理解されてしまうからです。残酷ですが「勝っている人」のほとんどは無意識です。問われれば「勝因」を述べることはできるでしょうけれど。

自然の状態というのは、現に存在するものと、かつて存在したものがある、ということです。人間はその違いが分かります。分かるがために生存戦略を含む様々なことに有効な手立てを講じられますが、現に存在し続けるものが、存在したけれど今は存在しないものより強く見えてしまう、ということもあります。現にそこにあるだけで意味が乗ってしまうのです。

「あるがまま」を「あるがまま」認知できない私たちは、「それを知っている」で済ませていてはいけないのです。勝手に「自然」を想定し、「常態(ノーマル)」を定義し、だから最善策は「競争だ」と言うのは、文字通り「勝手」過ぎるのです。

誰もが起きたことはそのまま受け入れるより仕方ありません。運命の残酷さというものは、何人たりとも「受け入れていますよ」と宣言することすら許されない程残酷なものなのです。それは内心の信条として保持し続けるより外手立てはないのです。

 自然の状態は全て確率で決まります。確率の分布には偏りがありますから、ほぼ永遠に繰り返し、変わりなく起こることも沢山あります。「常態」と見做しておいてよいことも沢山あります。「よい」というのは科学的分析の文脈で「近似をとることができる」という意味を超えて、「広く多くの人々に便益をもたらすことができる」という意味も持っています。

コントロールできないものを引き受ける、というのは理不尽であるばかりか、逆に悪いウソにもなり得ます。ただ、全てをコントロールできる範囲内に閉じ込めるのも、一見合理的で、謙虚な態度のようで、逆に無責任にもなり得ます。「やさしさ」というのはこうした葛藤を受け入れることなしに手に入れることはできません。

曖昧でない、分かりやすい解答を提示することも必要なことではあります。でも、往々にしてそうしたクリアな答えは、多くの人のため、と言いながら、解答を作った人自身のクリアさへの願望を孕んでいるものです。

何でも楽観的なのがいいとは言いませんが、「運命は受け入れなさい」というようなことは、一人一人の内心の信条に関わることであり、神様でもない以上、人間が人間に対して、諭せるようなことではないのです。いくら証拠を挙げて、理知的に、寛容そうな言葉を使ったとしても。

言えば言うほど、自らの願望が固定化していってしまいます。それほど社会のことが、人間のことが気になるというのなら、そうした自分自身の願望の方を面倒見てあげて欲しいところです。

 

 

 

頭の整理

してました。

気付いたら4か月も経っている。

同じようなことの繰り返しになってもいいので、ともかく書き続けよう、多分書き続けられるんじゃないか?と考えていたのですが、ある日パタリと止まった。

書くことに関しては基本的に無理が効かない人間なので、書けないということで悩むことはそれほどないのですが、伝えたいことが何かある状態が継続しているのは確かなので、それが進まないという点では困っています。

今も、ブログは同じようなことの繰り返しでもいいという方針ではいます。

思考の整理ですね。私のブログを書く主な目的は。

ということで、繰り返しになったとしても書けるようなテーマの見直しをしていたということになりますね。

今もまだ書き続けられるようなテーマを設定し直せたというような確信が持てていません。

それでもちょっと書いて整理してみようかな?という状態にはなったということです。

 

停止するまでのテーマは、結構絞れていたつもりだったのですが、まだまだ漠然とし過ぎていたようです。抽象的なことばかりで具体例がほとんどなく、書けば書くほど浮世離れしていく感じがして、それで止まったんだろうと。

 

その漠然とでも自分自身でテーマと思い込んでいたのは、「気付き」を端緒として、私たちの普段従事している思考の方法や、感じ方を詳らかにしよう、というもの。

科学的合理的な思考の方法にせよ、感覚の形成のされ方にせよ、中心を道徳倫理において。

道徳や倫理が中心ということで、当然の如く自他の関係性は外せない。つまり、全て、内心のことであっても、他者との関係性は考慮に入れている、或は、無意識ではあっても影響を受けている、との大前提がありました。これは今も変わっていません。

 

道徳や倫理を中心に据えたいのは、この世界をできるだけ優しい世の中にしたい、という気持ちから。

「優しい世の中」という情緒で感じるようなものなのですが、善悪の判断、それも、無意識のうちに「良い方」を指向している、という仕組み・プロセスまで説明すれば、「ああ。なんだ。私たちって実はもうちょっと優しくなれるってこと??」と納得してもらえないか?という考えでした。

 

理屈で情緒に訴えよう(理屈が先に来る)ということで、あと、理屈が私自身理解不十分で、語りがどうしても重厚になってしまいます。結果読んでもらえない。読んでもらえたとしても、「それで何??」という感覚に陥らせてしまうのだろうと。

あくまでも情緒面がメイン。「優しく」なってもらいたいという方が私自身の願いであり書く動機なのに、ちょっと遠慮しがち。もっとストレートに情緒に踏み込むべきかな?と。結局理屈で説明はするんですが。。。それしか今のところ芸がないもので。。。

どこまで踏み込むのか?

「みんな各自の中で巻き起こっている感覚に目を向けようよ」というところまで。

言葉にならない感覚。

「そんなの考えていられない」「それって考えたところで何になるの?」ってのが罷り通り過ぎている。それでは「優しい世の中」は無理だろうと。

この頭整理期間中も学術論文中心に関連文献を読んでいたのですが、読めば読むほどその思いは強くなるばかり。

瑕疵の無い理論や方法論だけではダメなのだ。

一人一人の言葉にならないような不明瞭で曖昧な感覚を抑圧し過ぎている。

勿論社会で生きていくということは、各自の感覚をストレートにぶつけ合うなんてことはできなくて、多少なりとも抑制はかけなければならない。

「抑制をかける」というよりもむしろ私は、各自の感覚といったって、ピュアに個人所有のものが一人一人の内部に宿っている、というようには考えていない。あくまでも不確かなものが、自分以外のもの・者との関わりの中で表現可能になっていく。つまり、どんなに原初的な感覚であろうとも、関係性の産物だということ。抑制はかかっている。よって「どんな抑制のかけ方がベター?」のようなことは考えなくてもいい。少なくとも真っ先に考えることではない。わけの分からない感覚を表現してみる、ということは、当然の如く置かれたシチュエーションでの適正さなども考慮に入れられている。間違ったりもするだろうけれど。

 恥をかく。

ばつの悪い状況をいかに穏便に、或は、笑って切り抜けられるのか?

そういうのも大事。

やけくそではない勇気。

これらの大事なものがなんで大事といえるのか?を得心してもらえるよう。

説明するだけではないんだろう。

語るのだ。

語りの練習をしなければ。。。

 

現実が残酷なわけ

「いい方がいい」

この漠然とした感覚。

なんだか駄々っ子のようですね。

でも、この一見子供じみた感覚は、「子供じみている」ということだけで却下してしまってはいけないのではないか?と考えています。

あまりに漠然としすぎてますので、ちょっと強引にカタチの次元へ引きずり出してみます。

現実って厳しいですよね?

おカネがない、仕事が終わらない、頑張っているはずなのに成績が上がらない、愛している人と心が通じ合わない、知らないおじさんに突き飛ばされても文句も言えない、、。

これらも勿論厳しい現実なのですが、より根源的に考えると、私たちは生きている以上(死んだ後でもかな??)自分の姿を他人の目に晒さないわけにはいきません。

晒す以上、自分の本心とは関係ないところで、「ははーん」とか「ふふーん」とか思われてしまうのを避けることもできません。

まあそれはお互い様なのですから、あまり一人で抱え込んじゃっても仕方ありません。

とはいえ、常に、放っておいてくれよ、とも言えない状況にあるというのはしんどいものです。

であるからして、人々は様々な技法を駆使してなるべくしんどくないように済ませます。

私たちが日々目にしていることや言葉ってそういうもんなんじゃないか?って見てみると、ひょっとすると一人一人の「いい方がいい」に近づけるような気がしませんか?

悩みが誰にでもあることぐらいならわりと簡単に想像はつきます。

でも、その悩みのようなものが、「いい方がいい」とかその曖昧さに関連付けられるかどうか?は分かりません。ましてやその「いい方がいい」がどれほど大切なものであるか?なんてことにはほぼ気付かれることもないでしょう。

そこで、行動や言葉などで、自身の姿を他人の目に晒す、というのは必ず「いい方/悪い方」の判断がなされてしまっているのでは?と考えてみます。

現代なら、他人に見えやすいモノ、分かりやすいカタチなら「いい方」。

昔は「秘すれば花」という時代もありました。

人は都度そうした「いい方」を感じ、判断することができるのではないでしょうか?

当然他者の目に晒されての評価とは必ずしも一致はしません。

そもそも本人ですら気付いてないことの方が多いでしょう。

気付いてないのに意味が乗る、乗せられる。

この厳しさを共有する。

特に”いいカタチ”を強要される現代です。

「はいはい。分かってますよ。どーせ。。。」

ってなってしまうのも無理のないことでしょう。

でも、存在を否定することはできません。

ないことにはできないのです。

「いい方がいい」。

「いい」っていうのは、善悪ではなくて、ただ「ある」こと。「ある」以上は否定よりも肯定の方がエネルギーは少なくて済む。そう実感できればかなり状況は良くならないでしょうか?

科学的実証的方法は否定的であるともいわれます。論理学上の真であることを追求するために、ありとあらゆる偽の可能性を想定し、これを排そうとするためです。

でもその方法により確認された真がなければ、現代が求めてくる”いいカタチ”なんてただの絵空事に終わってしまいます(既にそうなりつつある?)。

とはいえ、”いいカタチ”というものは、決して科学的実証的手法で確定された真そのものであるというわけではないでしょう。そもそも前提が命綱の手法です。現実世界のあれこれを全て包含なんてできません。

つまり、”いいカタチ”なるもの、個々人の曖昧な「いい方がいい」に駆動されたカタチだからこそ”いい”と言えるということ。よって、科学的実証的手法は、曖昧な「いい方がいい」にカタチを与える。そのためだけに重要だということなのではないでしょうか?

現代を強烈なパワーで動かしている、けれども、どうも最近信用が下がりつつあるように見える科学的実証的手法。

これについて今一度詳しく見てみる必要がありそうです。 

おかしなもので

「生きてくのが先決」といいつつ、私たちって生きていくのに何が最低限必要なのかは分からないし、「分かっている」って言い張る人だって、必ずしもその積算に基づいて生きているわけではない。まあ百歩譲って、多少の余裕を見積もった上でやり繰りされているというところでしょう。そうであるとしても、絶対寿命を全うできるとは限らないものです。

いつどこでどういう風に死ぬのか?はっきり分からないというのは当たり前のようで中々重大な問題です。分かったら分かったでまた色々考えなきゃならなくなって大変ではありますが。。。

現代人は最低限お仕事しておカネ稼ぐか、働かないとしても最低限のおカネは必要と感じる人が多いでしょうし、おそらくそれは正しい。

でも、いくら余分があったとしてもそうは思えないし、足りてない人に差し出そうという気にも中々なれません。

では、なるべく正確に、、、って積算してみるでしょうか?

私の推測では、あまりそういう人は多くはない、と思います。

ましてや、足りてない人にあげるためにそうするなんて人はさらに少ないでしょう。

そもそも積算の重要な根拠となるいつ死ぬか?が分からないんですから、積算への意欲も減退します。

では、普段私たちは何を根拠に安心しているのでしょう?

数字?

かもしれないけれど、なんでその数字で大丈夫と思えるか?漠然とでもその人なりの理由があるはずです。

私は、普段の安心感というのは、広い意味で「独りじゃないな」と感じられることなんじゃないか?と考えています。

”広い意味”というのは、毎日わりと長い時間過ごす人がいるというだけでなく、似た人が周りにいるとか、話せば意味わかってくれそうな人がいる、話していることの意味がなんとなくでも分かるとかも含みます。

そういうものが、お仕事やおカネのように必要最低限と思われるものへの手掛かりになっている、という考えです。

手掛かりとはいっても、偶然たまたまひょんなことからありつける、という場合もあるでしょうし、必ずしも最低限必要なもののために仲間を求めたり確保しているわけではないでしょう。かなり緩い、でも生き死ににも影響を及ぼすつながり、といった感じでしょうか。

何故そのような必ずしも直接生存の保証にはつながらないもので安心できているのでしょう?

そもそも安心なんてしていない、と言われるかもしれませんが、槍もって米屋襲撃とかまでにはまだ距離がある。苦しい、不安といえどもまだ秩序はある程度保たれている、保とうとの潜在意識がある感じです。

つまり、

  • 物的・金銭的な根拠も勿論欲しい。数字の厳密さはかなりラフであるとしても。

また、

  • 混沌よりは秩序の方がいい、と潜在的にでも感じている。

さらに、

  • 「秩序の方がいい」だけでなく、もっと漠然とした「いい方がいい」も駆動している。

のではないでしょうか?

最近はとみに先行き不透明ですから、多くの人が、減点方式で、なんとか最後の線を確保しているのかもしれません。

不安が大きい中でも維持されようとしているものなのですから、これは無視できません。あまりに漠然とし過ぎていますが。。。

ではカタチを与えられれば状況は大きく変わりはしないでしょうか?

どうやって?何のために?

  • 安心感を増すため。

使える手段は、、、

  • 考えること?

まずは、

  • 希望はある、と認識すること。
  • 自分にとっての「いい方」って何だ?を突き詰めてみる。

そのための指針を次回以降詳しく見ていきたいと思います。 

格差問題

「恩寵を導く」社会分析が目標の本ブログですが、私が何とかしなきゃな、と感じるのものの一つが格差の問題です。

私たちは生まれ持ったものも違えば、育つ環境も違います。格差があるのはしょうがないことです。

ただ、あんまり酷いのはさすがになんとかした方がいいんじゃないか?と感じる人の方が多いのではないか?と思います。

特に昨今のようにいろんな情報が耳に入ってくるようになると、豊かな生活と貧しい生活(富の面、文化の面などいろいろな意味で)のコントラストが際立つように感じますので、「何とかした方が」だけでなく、不遇な方にいることが日々感じられれば、そうでない方に羨望したり、場合によっては怒りなどをぶつけたくなったりもするでしょう。で。それは社会の分裂に繋がったりと、結局みんなのためにならないのではないでしょうか?

交換

格差を少しでも小さくしようと思えば、多く持っている人から少ししか持っていない人へモノやそれを買うためのおカネなどが移動しなければなりません。

現代では合法的手段として、通常「交換」という方法が用いられます。

「交換」というのは本来お互いに何かを持っている者同士でないと成立しませんが、現代では多くの人が「労働力」を持っているということになっていて、それをいろんなモノを持っている人たちがさらに収益をあげられるようなカタチに加工するために提供して、おカネと「交換」しているという説明になっています。

まあいずれにせよ、「交換」なんてものが必要になっているということは、格差がある、ということに違いはありません。

「交換」をいかに効率的に、かつ、格差縮小の目標に対して有効に、というその方法を分析・開発することも大切ですが、私は、格差が全くなくなるなんてことはない以上、「どういった時に、人って持っているモノを持ってない人に差し出してもいいと思いやすいか?」ということを考えないといけないんじゃないか?と考えているのです。

数量的には非常に曖昧なのですが、自分がより多くを保持していたい、確保できるようにしたい、という方向に常に一人一人が駆り立てられていては、格差というものは拡がるばかりだろうと。なんせ、知力体力には個人差ありますから。。。ガチンコ勝負をすれば、強い者、賢い者だけが勝ち続けるのは道理でしょう。

希望といいますか、現実にはいつでもどこでも何でもガチンコ勝負でモノコトは決せられているわけではありません。やっぱり日常の中でガチンコっていうのはしんどい。力の差、知力の差だって、全ての条件を同じにして戦えば、案外拮抗しているものですから。戦えば勝者もそれなりにダメージをくらいます。

完全平等なルールを決めきるなんてことはできないですし、なら日常では何が起こっているのか?といえば、タイミングであるとか、コンディションであるとか、コネクションであるとか、ありとあらゆるリソースを駆使して、極端な話、インチキしたりするから一見スマートに勝ち抜けられているように見えるだけなんですね。勝っている方は。

それだけ様々なリソースを駆使する能力が高いなら、例えば勝つことを目標にするにしても、戦利品は広く社会の安定のために活用する、っていう方法だって考えられるのではないか?或は、勝ち負けを決めて、自分の持っているモノの正当性を主張するというやり方ではなくて、最初っから、「おいらここまでで十分なんで、、、」というように、負け続けそうな人々に配慮したルールで競う方法だって考えられるのではないか?

そんな希望的観測を持っています。

この希望的観測を現実のものとするためにも、まずは他者(特に弱げな方の人々)に配慮できるような余裕ってどんな時にどうすれば持てるようになるのか?考えたいですし、それには、安心感・不安感の源、形成のされ方などなどを現実に即して分析してみることが大切と考えています。

言論の自由

憲法とかで保証されている権利や義務のお話も大事ではありますが、言葉って案外自由には使わせてもらえないものです。

文法をはじめとする規則あり、マナー上使わない方がいい単語や言い回しがあったり、時代が変われば一般的にイメージされる意味が微妙に(場合によってはドラスティックに)変わっちゃったりもします。

特にマナーや時の流れの中で変わる意味などは、何か決まった法則があって言葉が制限を受ける、というよりも、勘といいますか、雰囲気を読むといいますか、とある現場に置かれた人がそれぞれどんな人といるか?なども観察したりしながら、協力し合うようなイメージで、ルールらしいものを決めていっている感じがします。

ですので、当然、居合わせた人同士の力関係、社会的地位の違いなどの影響も受けるでしょう。

また、特定の国や地域で効力のある法制度の他、国際的な取り決め、大手主要メディアが報じるニュースの論調なんてものも、面と向かってやり取りしている者たちに直接は関係がなかったとしても、双方の話すことに影響を及ぼします。何故なら、私たちは個々に、様々な外部情報なども参照しつつ、自らの考えや振る舞い方を決めていて、当然話すことや話し方なんかも影響されざるを得ないからです。

国とか国際社会とかメディアなんてものからの影響を考えるに、私たち一人一人って到底対抗できないぐらい貧弱だよなーと感じます。とはいえ、国などのおっきなパワーを持つ何者かが真空状態からぽっと出てきてうごめき続けているわけもなく、私たち一人一人も多かれ少なかれ一枚噛んでいるはずです。この無力貧弱な一人一人と、巨大なパワーを発揮する何者かとの関係。どのように理解すればいいのでしょうか?

吉田健一さんという方がいらっしゃって、

戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

と仰られていて(詳しくはこちらをどうぞ)、ことあるごとに思い出しています。

難しいのは執着なのかなーとなんとなく感じます。身の回りで日々起きるモノコトを慈しみ愛でる気持ちで大切にしよう、というのは「いいことだ」と直感的に思えるのですが、どうしても周りが気になるといいますか、おっきな社会の流れを見るに、「それでどーなる?」という目に見える変化・結果を求める気持ちは否定できません。

だからこその「美しく[する]」なのでしょう。

自分自身の感性で決める。そうして決めたとすれば、結果云々に関係なく、執着し続けることができやすくなるのではないか?

「美しく」ですから、独りよがりでもダメなはず。やっぱり他者の目、しかもわりと広い範囲の人にも「美しい」って感じてもらいたいじゃないですか。押し付けるのではなくて。。。(「美しさ」って押し付けられるような性質のものでもない。だからこそ選択された言葉なのかもしれません。)

中々難しそうですよね。「美しく[する]」のって。。。

自身の気持ち・感性に誠実であろうとすること 。

他者からの視線はどうか?

それらをかわるがわる見ることにより生まれるのであろう、他者への思い。「彼女・彼らにも美しいものがあるんだろーなー」。

それで巨大なパワーに対抗できるのか?

まだ心許ないですが、執着できるよう努めつつ、さらに容易かつ効果的に執着できるような方策を明らかにしていきたいところです。

 

共感と交換

共感というのは、他者が感じているであろうことを、あたかも自分も感じているかのように、自他の感覚を重ね合わせようとすること。

交換というのは、交換の当事者間で「等価値である」と合意されたモノについて、その所有者(帰属先)が入れ替わること。サービス(役務)が関わる場合は、役務が生み出す効用(モノである場合もあり)について、交換当事者間で、「役務と効用とが等価値であると合意されている」と考える。

交換の方がより強いけれど、共感の方も、当事者同士は原則として対等である、或は、平等であることを目指すものと想定されている。

交換は、交換されるモノ/サービス間の等価値に加え、どちらかが応じなければ成立しないので、どちらにも「応じない権利」はあるという意味で対等な立場にある者同士が想定されている。

共感も、する方される方双方の感じ方が厳密に同一であることはないけれど、共感というからには、まあまあ似通った感覚のことについてお互いに理解し合おうという意思がある(べき)はず、というような平等観・対等な立場尊重観がある。

しかし、果たして共感も交換も平等・対等な者同士の間で起こるものと考えてよいだろうか?

 「常に」ということはまずないだろうし、実は結構格差のある者同士という場合は多い。雇用者-被雇用者、販売者-消費者、現に痛がっている人-共感する人。。。

まあそもそも何もかも満遍なく均等に行き渡っているなら、交換の必要もほぼないわけだし、共感どころか、、、感情もあんまり湧きあがらないんじゃあないだろうか。

つまり現実はいつだってアンバランス。

だから大事なのはあんまりひどく偏らないようにすること。

完全平等を目指す気持ちは尊いけれど、そんな非現実的な公式に知力精力を投入するより、どんな状態だったらより多くの人にとって不満が少なく、結果少しでも心安くいられるか?を丁寧に見なければいけないのではないだろうか?

とするならば、ケース・バイ・ケースの対応になってしまうのは避けられないだろうし、広く通用する基本原理っぽいものを探りつつも、個々のケースに当たる実践面のスキルも練っていかなければならないはず。

私が個々の人の考えるプロセスや方法に興味があるのは、「一体どういう状態であればわりと進んで他者のために自分のリソースを差し出そうとしたくなるか?」を知りたい、ということがあります。ケース・バイ・ケースの対応とはいえ、それが分かれば、案外都度行われる交渉とかが、より穏便に進みやすくなるのでは?と考えているのです。

 沢山持っているはずなのに、足りてない人がいると知りつつ、もっともっと多くを求めてしまう。ひどいときには、無駄に使って捨ててしまってもいる。

そういうことは日常茶飯事。

だから完全に撲滅することなんてできないだろうけれど、ちょっとした気付きによって、例えば、必要としている人のまさに目の前で無駄遣いして、じとーっと見られたらムカついて蹴り飛ばす、みたいな酷いことをなくすことはできるんじゃあないだろうか?

まあそのような極端な事例に巻き込まれることは稀ではありますが、「どーするかなー?」ぐらいの気分で準備しておくのって意外に大事では?なんてことを考えています。