おかしなもので
「生きてくのが先決」といいつつ、私たちって生きていくのに何が最低限必要なのかは分からないし、「分かっている」って言い張る人だって、必ずしもその積算に基づいて生きているわけではない。まあ百歩譲って、多少の余裕を見積もった上でやり繰りされているというところでしょう。そうであるとしても、絶対寿命を全うできるとは限らないものです。
いつどこでどういう風に死ぬのか?はっきり分からないというのは当たり前のようで中々重大な問題です。分かったら分かったでまた色々考えなきゃならなくなって大変ではありますが。。。
現代人は最低限お仕事しておカネ稼ぐか、働かないとしても最低限のおカネは必要と感じる人が多いでしょうし、おそらくそれは正しい。
でも、いくら余分があったとしてもそうは思えないし、足りてない人に差し出そうという気にも中々なれません。
では、なるべく正確に、、、って積算してみるでしょうか?
私の推測では、あまりそういう人は多くはない、と思います。
ましてや、足りてない人にあげるためにそうするなんて人はさらに少ないでしょう。
そもそも積算の重要な根拠となるいつ死ぬか?が分からないんですから、積算への意欲も減退します。
では、普段私たちは何を根拠に安心しているのでしょう?
数字?
かもしれないけれど、なんでその数字で大丈夫と思えるか?漠然とでもその人なりの理由があるはずです。
私は、普段の安心感というのは、広い意味で「独りじゃないな」と感じられることなんじゃないか?と考えています。
”広い意味”というのは、毎日わりと長い時間過ごす人がいるというだけでなく、似た人が周りにいるとか、話せば意味わかってくれそうな人がいる、話していることの意味がなんとなくでも分かるとかも含みます。
そういうものが、お仕事やおカネのように必要最低限と思われるものへの手掛かりになっている、という考えです。
手掛かりとはいっても、偶然たまたまひょんなことからありつける、という場合もあるでしょうし、必ずしも最低限必要なもののために仲間を求めたり確保しているわけではないでしょう。かなり緩い、でも生き死ににも影響を及ぼすつながり、といった感じでしょうか。
何故そのような必ずしも直接生存の保証にはつながらないもので安心できているのでしょう?
そもそも安心なんてしていない、と言われるかもしれませんが、槍もって米屋襲撃とかまでにはまだ距離がある。苦しい、不安といえどもまだ秩序はある程度保たれている、保とうとの潜在意識がある感じです。
つまり、
- 物的・金銭的な根拠も勿論欲しい。数字の厳密さはかなりラフであるとしても。
また、
- 混沌よりは秩序の方がいい、と潜在的にでも感じている。
さらに、
- 「秩序の方がいい」だけでなく、もっと漠然とした「いい方がいい」も駆動している。
のではないでしょうか?
最近はとみに先行き不透明ですから、多くの人が、減点方式で、なんとか最後の線を確保しているのかもしれません。
不安が大きい中でも維持されようとしているものなのですから、これは無視できません。あまりに漠然とし過ぎていますが。。。
ではカタチを与えられれば状況は大きく変わりはしないでしょうか?
どうやって?何のために?
- 安心感を増すため。
使える手段は、、、
- 考えること?
まずは、
- 希望はある、と認識すること。
- 自分にとっての「いい方」って何だ?を突き詰めてみる。
そのための指針を次回以降詳しく見ていきたいと思います。
格差問題
「恩寵を導く」社会分析が目標の本ブログですが、私が何とかしなきゃな、と感じるのものの一つが格差の問題です。
私たちは生まれ持ったものも違えば、育つ環境も違います。格差があるのはしょうがないことです。
ただ、あんまり酷いのはさすがになんとかした方がいいんじゃないか?と感じる人の方が多いのではないか?と思います。
特に昨今のようにいろんな情報が耳に入ってくるようになると、豊かな生活と貧しい生活(富の面、文化の面などいろいろな意味で)のコントラストが際立つように感じますので、「何とかした方が」だけでなく、不遇な方にいることが日々感じられれば、そうでない方に羨望したり、場合によっては怒りなどをぶつけたくなったりもするでしょう。で。それは社会の分裂に繋がったりと、結局みんなのためにならないのではないでしょうか?
交換
格差を少しでも小さくしようと思えば、多く持っている人から少ししか持っていない人へモノやそれを買うためのおカネなどが移動しなければなりません。
現代では合法的手段として、通常「交換」という方法が用いられます。
「交換」というのは本来お互いに何かを持っている者同士でないと成立しませんが、現代では多くの人が「労働力」を持っているということになっていて、それをいろんなモノを持っている人たちがさらに収益をあげられるようなカタチに加工するために提供して、おカネと「交換」しているという説明になっています。
まあいずれにせよ、「交換」なんてものが必要になっているということは、格差がある、ということに違いはありません。
「交換」をいかに効率的に、かつ、格差縮小の目標に対して有効に、というその方法を分析・開発することも大切ですが、私は、格差が全くなくなるなんてことはない以上、「どういった時に、人って持っているモノを持ってない人に差し出してもいいと思いやすいか?」ということを考えないといけないんじゃないか?と考えているのです。
数量的には非常に曖昧なのですが、自分がより多くを保持していたい、確保できるようにしたい、という方向に常に一人一人が駆り立てられていては、格差というものは拡がるばかりだろうと。なんせ、知力体力には個人差ありますから。。。ガチンコ勝負をすれば、強い者、賢い者だけが勝ち続けるのは道理でしょう。
希望といいますか、現実にはいつでもどこでも何でもガチンコ勝負でモノコトは決せられているわけではありません。やっぱり日常の中でガチンコっていうのはしんどい。力の差、知力の差だって、全ての条件を同じにして戦えば、案外拮抗しているものですから。戦えば勝者もそれなりにダメージをくらいます。
完全平等なルールを決めきるなんてことはできないですし、なら日常では何が起こっているのか?といえば、タイミングであるとか、コンディションであるとか、コネクションであるとか、ありとあらゆるリソースを駆使して、極端な話、インチキしたりするから一見スマートに勝ち抜けられているように見えるだけなんですね。勝っている方は。
それだけ様々なリソースを駆使する能力が高いなら、例えば勝つことを目標にするにしても、戦利品は広く社会の安定のために活用する、っていう方法だって考えられるのではないか?或は、勝ち負けを決めて、自分の持っているモノの正当性を主張するというやり方ではなくて、最初っから、「おいらここまでで十分なんで、、、」というように、負け続けそうな人々に配慮したルールで競う方法だって考えられるのではないか?
そんな希望的観測を持っています。
この希望的観測を現実のものとするためにも、まずは他者(特に弱げな方の人々)に配慮できるような余裕ってどんな時にどうすれば持てるようになるのか?考えたいですし、それには、安心感・不安感の源、形成のされ方などなどを現実に即して分析してみることが大切と考えています。
言論の自由
憲法とかで保証されている権利や義務のお話も大事ではありますが、言葉って案外自由には使わせてもらえないものです。
文法をはじめとする規則あり、マナー上使わない方がいい単語や言い回しがあったり、時代が変われば一般的にイメージされる意味が微妙に(場合によってはドラスティックに)変わっちゃったりもします。
特にマナーや時の流れの中で変わる意味などは、何か決まった法則があって言葉が制限を受ける、というよりも、勘といいますか、雰囲気を読むといいますか、とある現場に置かれた人がそれぞれどんな人といるか?なども観察したりしながら、協力し合うようなイメージで、ルールらしいものを決めていっている感じがします。
ですので、当然、居合わせた人同士の力関係、社会的地位の違いなどの影響も受けるでしょう。
また、特定の国や地域で効力のある法制度の他、国際的な取り決め、大手主要メディアが報じるニュースの論調なんてものも、面と向かってやり取りしている者たちに直接は関係がなかったとしても、双方の話すことに影響を及ぼします。何故なら、私たちは個々に、様々な外部情報なども参照しつつ、自らの考えや振る舞い方を決めていて、当然話すことや話し方なんかも影響されざるを得ないからです。
国とか国際社会とかメディアなんてものからの影響を考えるに、私たち一人一人って到底対抗できないぐらい貧弱だよなーと感じます。とはいえ、国などのおっきなパワーを持つ何者かが真空状態からぽっと出てきてうごめき続けているわけもなく、私たち一人一人も多かれ少なかれ一枚噛んでいるはずです。この無力貧弱な一人一人と、巨大なパワーを発揮する何者かとの関係。どのように理解すればいいのでしょうか?
吉田健一さんという方がいらっしゃって、
戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。
と仰られていて(詳しくはこちらをどうぞ)、ことあるごとに思い出しています。
難しいのは執着なのかなーとなんとなく感じます。身の回りで日々起きるモノコトを慈しみ愛でる気持ちで大切にしよう、というのは「いいことだ」と直感的に思えるのですが、どうしても周りが気になるといいますか、おっきな社会の流れを見るに、「それでどーなる?」という目に見える変化・結果を求める気持ちは否定できません。
だからこその「美しく[する]」なのでしょう。
自分自身の感性で決める。そうして決めたとすれば、結果云々に関係なく、執着し続けることができやすくなるのではないか?
「美しく」ですから、独りよがりでもダメなはず。やっぱり他者の目、しかもわりと広い範囲の人にも「美しい」って感じてもらいたいじゃないですか。押し付けるのではなくて。。。(「美しさ」って押し付けられるような性質のものでもない。だからこそ選択された言葉なのかもしれません。)
中々難しそうですよね。「美しく[する]」のって。。。
自身の気持ち・感性に誠実であろうとすること 。
他者からの視線はどうか?
それらをかわるがわる見ることにより生まれるのであろう、他者への思い。「彼女・彼らにも美しいものがあるんだろーなー」。
それで巨大なパワーに対抗できるのか?
まだ心許ないですが、執着できるよう努めつつ、さらに容易かつ効果的に執着できるような方策を明らかにしていきたいところです。
共感と交換
共感というのは、他者が感じているであろうことを、あたかも自分も感じているかのように、自他の感覚を重ね合わせようとすること。
交換というのは、交換の当事者間で「等価値である」と合意されたモノについて、その所有者(帰属先)が入れ替わること。サービス(役務)が関わる場合は、役務が生み出す効用(モノである場合もあり)について、交換当事者間で、「役務と効用とが等価値であると合意されている」と考える。
交換の方がより強いけれど、共感の方も、当事者同士は原則として対等である、或は、平等であることを目指すものと想定されている。
交換は、交換されるモノ/サービス間の等価値に加え、どちらかが応じなければ成立しないので、どちらにも「応じない権利」はあるという意味で対等な立場にある者同士が想定されている。
共感も、する方される方双方の感じ方が厳密に同一であることはないけれど、共感というからには、まあまあ似通った感覚のことについてお互いに理解し合おうという意思がある(べき)はず、というような平等観・対等な立場尊重観がある。
しかし、果たして共感も交換も平等・対等な者同士の間で起こるものと考えてよいだろうか?
「常に」ということはまずないだろうし、実は結構格差のある者同士という場合は多い。雇用者-被雇用者、販売者-消費者、現に痛がっている人-共感する人。。。
まあそもそも何もかも満遍なく均等に行き渡っているなら、交換の必要もほぼないわけだし、共感どころか、、、感情もあんまり湧きあがらないんじゃあないだろうか。
つまり現実はいつだってアンバランス。
だから大事なのはあんまりひどく偏らないようにすること。
完全平等を目指す気持ちは尊いけれど、そんな非現実的な公式に知力精力を投入するより、どんな状態だったらより多くの人にとって不満が少なく、結果少しでも心安くいられるか?を丁寧に見なければいけないのではないだろうか?
とするならば、ケース・バイ・ケースの対応になってしまうのは避けられないだろうし、広く通用する基本原理っぽいものを探りつつも、個々のケースに当たる実践面のスキルも練っていかなければならないはず。
私が個々の人の考えるプロセスや方法に興味があるのは、「一体どういう状態であればわりと進んで他者のために自分のリソースを差し出そうとしたくなるか?」を知りたい、ということがあります。ケース・バイ・ケースの対応とはいえ、それが分かれば、案外都度行われる交渉とかが、より穏便に進みやすくなるのでは?と考えているのです。
沢山持っているはずなのに、足りてない人がいると知りつつ、もっともっと多くを求めてしまう。ひどいときには、無駄に使って捨ててしまってもいる。
そういうことは日常茶飯事。
だから完全に撲滅することなんてできないだろうけれど、ちょっとした気付きによって、例えば、必要としている人のまさに目の前で無駄遣いして、じとーっと見られたらムカついて蹴り飛ばす、みたいな酷いことをなくすことはできるんじゃあないだろうか?
まあそのような極端な事例に巻き込まれることは稀ではありますが、「どーするかなー?」ぐらいの気分で準備しておくのって意外に大事では?なんてことを考えています。
「社会分析」といいながら。。。
ここまでは専ら個人のプロセス(考え方)についてしか書いてません。
何故かといいますと、社会の様々な問題、課題、事件などを扱うと、とりあえずそれらしいことは言えてしまうから。
それの何が問題なのか?といいますと、以前のポストでちらっと言及したのですが、「多くの人が、例えば問題であるなら、問題と認識している」と十分に推定される事件・事象って、結局他人事なんですよね。
他人事っていうのは、自分が経験していないんだから当たり前なのですが、一応話題に上るってことは、自分にも多少は関係ある(と感じている)はずなんですね。
でも、話だけなら、それほど自分との関連性って前面に出すこともない。ひょっとすると、無理やりこじつけて自分も一枚嚙んでいるような話し方になっちゃうと、ウザいって思われてしまうかもしれません。
そんなこんなで、一応お話ができたとしても、他人事って、適度に自分との関わり合いを測るのって結構難しいのです。
そういう微妙な距離感の測り方を覚える方が、既に問題化しているような事象を分析するよりも大事なんではないか?と考えているのです。
そうはいったって、沢山表面化している問題を放ったらかしにはしていられませんから、どんどん分析して、できることなら解決していかなければなりません。なので、正統的?な社会分析を否定するつもりはありません。理想的には、社会問題を、各自適切な距離感を測ってどしどし実施していければいいと考えています。
例えばこんな感じ↓
岸政彦さんらの「質的社会調査の方法」。これめっちゃいい本。自分の仕事にも有益すぎる。凡庸なジャーナリズム論、取材論を何冊も読むよりこれ1冊読むほうがかなり大事なことが身につくよ。 pic.twitter.com/PaeckfBxbf
— 石戸諭(Ishido Satoru) (@satoruishido) 2016年12月30日
とはいえ、人間の知的能力にも限界がありますから、問題分析があたかも自分とは無関係なモノのように扱われたとして、たとえ内心で、「ちょっと分析対象をモノ化しすぎているかな?」と感じていたって、聴衆にそれを伝えるのは容易ではありません。
残念ながら、多くの社会分析は、どんどんモノ化が進むように作用していると感じています。
社会を構成しているのは一人一人、人間なんですが。。。
おかげで、社会分析って、一つのステータスシンボルみたくなっちゃっているんですね。できたらエライ、おカネがもらえる、カッコイイ。。。
生身の人間の生活を解釈させてもらって、解釈させてもらった人々へのお返しなんかよりも、自分の生活が優先されてしまうのって、致し方ない部分はあるのですが、最近の動向を見るに、ちょっと行き過ぎかな?と。
距離感ミスっているわけです。
私がこのブログを含め考えているのは、「社会は私たちの外にあるのではなくて、既に一人一人の中に埋め込まれている、かのように考えられるようにならないか?」ということです。
社会を変えるつもりで自分を変えようと試みてみる、感じでしょうか。
今後可能であるならば、より具体的に時流に沿った社会問題なんかも扱えたら、とも考えています。難しいですが、やってみないことには、個人の内面のお話にしか過ぎない、ということで、社会分析にも、自己啓発系のお話にも勝てません。勝ち負けではないのかもしれませんが、頑張ります。
「恩寵を導く」という目安
「このブログについて」にも書かせていただいている通り、ここでの狙いは、「我がこととするとちょっとプレッシャーがきつくて、ついつい無理しちゃったり、逆に逃げちゃったりしがちなことどもを、別の誰か何かに想像上うっちゃることによって、なるべく落ち着いて考えてみましょう」ということ。
肝心の中身=無理しちゃったり逃げちゃったりしがちなことどもって??
- 考える方法
考える方法において自分自身にかかるプレッシャーって?
- 自分が置かれた状況に適しているか?もあるでしょうし、内容・事実関係が正確かどうか?という懸念もあるでしょうし、何よりも考えた後どうするか?となると行動がついてきますので、それを想像したときに、当然現れる他者からの視線もあると思います。
そういったもののために、自分で「こっちの方が本当なんだけど」と感じることが多少なりとも加工されがちだったりします。
多少ならよいのですが、小さいズレも都度補正がなされないと、自分の「より本当」が抹殺されてしまいかねません。それは事実を知りたい場合、そのための情報がねじ曲がっていたりして困る。また、一人一人の心理面でも、「自分の本当」を抑圧し過ぎるのはあまりよくないのではないか?と。
それなら、一つ、自分のことではなくて、他の人にもあるであろう「より本当」という感覚。こいつを拾ってあげるつもりで、考える方法というものを見てみてはどうか?ということです。
なのですが。。。
すでに10以上ポストしてみて、どうもフォーカスが甘い感じがしています。
そこで、一つ、何を目指しているのか?目標のようなものを設定してみることにしました。
それが
「恩寵を導く」
です。
「より本当」を拾い上げるように考える方法を練ることによって、「恩寵」を導く。
分かりやすく言えば「やさしく」考える。そして行動するようになる。しかもみんなで。。
ということなのですが、あくまでも「恩寵」ですので、計算は難しいという認識です。
ニュアンスとしては、
人事を尽くして天命を待つ
という感じです。
天命というと全く運任せ、神任せ、のようにも理解できますが、ともかくまずは実際に触れ合う人々の善意に賭けてみる、ということに重点があります。
まあ、とある人の考えや行動に、いろんな人がどのように反応するか?は完全にはコントロールはできないわけですから、結局運頼み、神頼みではあるのですが。。。
人智ではコントロールしきれないものがあると認めつつ、だからといって「じゃあ何でもありでええやん」みたいに投げやらない。
やさしさというのは、そういう「ほたらどーせーっちゅうねん!?」みたいなどうしようもなさに思いを馳せてみることで生まれやすくなるのでは?と考えています。
分けて考えることの効用と留意点
宗教を悪く思う人はそれを詐欺だと考える。逆に宗教を良く思う人はそれをチャリティだと考える。だが、世俗のチャリティと宗教のチャリティは性格が異なるのがふつうだ。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
たとえばここに病気になった人がいるとする。世俗のチャリティの目標としては、この不幸な人のマイナス面を他の人々が埋め合わせて、生きている間にできるだけ算術的平等にもちこもうとするだろう。金銭であれ、時間であれ、介護であれ。完全な均衡の達成が無理であっても原理的にはそこを目指す。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
宗教的チャリティの場合は、困った人に親切に尽くすのは善いことではあるが、所詮人間のできることには限界があると割り切っている。慈善はやればやっただけいいのであるが、不完全だといって責めるのは筋が違う。結局、病気は病人と神との問題、慈善もまた慈善家と神との問題、両者は断ち切れている。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
世俗の考え方では、どうしても解消し得ない不平等に対して、なんとしても平等に持ち込もうとして無理をしてしまう。だからシステムとして破綻する恐れがある。うまく行っている間はいいが、世の中がひっ迫してくるとそうもいかない。この世の内部での予定調和をめざすのは端的に言って不合理だろう。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2017年2月12日
私がこのブログで書いていることは、あまり具体性がなくて、イマイチしっくりこない、との声を頂いているわけではないんですが、私自身常に気になっています。
あ。これならいい教材になるのでは?と思い、上記のツィートを引用させていただきました。
「宗教的チャリティ」と「世俗的チャリティ」
チャリティを、この二つに分けて考えてみることで、新たな見方が得られる好例。
慈善活動というと、そんなにご立派なら持っているもの全て捧げるがいい、なんて乱暴な言われ方をされるのもしばしば耳にします。
宗教的な方の捉え方でいけば、チャリティとは、個人と神様の間の問題で、個人は自分の神様と相談してできる範囲を決めても何ら問題はない。
他人がするチャリティをとやかく言うのは筋違い。
チャリティを自分はできないと思えば、神様とお話して、やりませんと決めればいいこと。
「世俗」という言い方がピッタリくるとは必ずしもいえないのでは?とも感じますが、昨今の私たちの常識からすると、権利、責任、義務というのが常に頭にありますので、神様とお話して決める、というよりも、法制度とは言わずとも、世間との兼ね合いでモノコトを考える傾向が強くなります。
私の収入と彼の収入を比較するなら、彼はもっと寄付できる、すべきはずだ。
チャリティは慈善なので、それがあることで、却って人間関係がギスギスしてしまうのはもったいない。というか、「世俗」の考え方ばかりだと、慈善の行動が(少なくとも心理的に)妨げられてしまいかねません。
ここは思い切って「宗教的」な方で理解することにしよう!
というように、ちょっと整理しやすくはなります。
が。
行動が伴うとなると、「宗教」と「世俗」とはきれいには分けられません。
ただお祈りするだけでも、それが日々の習慣になっている人にとっては、「世俗」へのお祈りも含まれているはずです。
神様なんて普段は意識していなくとも、数ある「世俗的」判断に基づく行動の中で、ふと「祈りの気持ち」が込められていないとも限りません。
分けて考えるというのは、「どう分けるのか?」の定義が問題とされやすいですが、 私は、分けてみて、分かった後どう考えるか?も同じぐらい大切だと考えています。
「宗教的」のように、神様以外の他者を排して、自己と向き合うことも大切ですが、「世俗」に生きている自分、他者と完全没交渉は不可能、なんてことも忘れずにいられるとよいですね。
まあ現代は「世俗」を生きるのにかなりのエナジーを割かれてしまいがちですので、「宗教的」の方の大切さについてより注意を向けるよう意識した方がいいのかもしれませんが。