いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

「社会分析」といいながら。。。

ここまでは専ら個人のプロセス(考え方)についてしか書いてません。

何故かといいますと、社会の様々な問題、課題、事件などを扱うと、とりあえずそれらしいことは言えてしまうから。

それの何が問題なのか?といいますと、以前のポストでちらっと言及したのですが、「多くの人が、例えば問題であるなら、問題と認識している」と十分に推定される事件・事象って、結局他人事なんですよね。

他人事っていうのは、自分が経験していないんだから当たり前なのですが、一応話題に上るってことは、自分にも多少は関係ある(と感じている)はずなんですね。

でも、話だけなら、それほど自分との関連性って前面に出すこともない。ひょっとすると、無理やりこじつけて自分も一枚嚙んでいるような話し方になっちゃうと、ウザいって思われてしまうかもしれません。

そんなこんなで、一応お話ができたとしても、他人事って、適度に自分との関わり合いを測るのって結構難しいのです。

そういう微妙な距離感の測り方を覚える方が、既に問題化しているような事象を分析するよりも大事なんではないか?と考えているのです。

そうはいったって、沢山表面化している問題を放ったらかしにはしていられませんから、どんどん分析して、できることなら解決していかなければなりません。なので、正統的?な社会分析を否定するつもりはありません。理想的には、社会問題を、各自適切な距離感を測ってどしどし実施していければいいと考えています。

例えばこんな感じ↓

 

とはいえ、人間の知的能力にも限界がありますから、問題分析があたかも自分とは無関係なモノのように扱われたとして、たとえ内心で、「ちょっと分析対象をモノ化しすぎているかな?」と感じていたって、聴衆にそれを伝えるのは容易ではありません。

残念ながら、多くの社会分析は、どんどんモノ化が進むように作用していると感じています。

社会を構成しているのは一人一人、人間なんですが。。。

おかげで、社会分析って、一つのステータスシンボルみたくなっちゃっているんですね。できたらエライ、おカネがもらえる、カッコイイ。。。

生身の人間の生活を解釈させてもらって、解釈させてもらった人々へのお返しなんかよりも、自分の生活が優先されてしまうのって、致し方ない部分はあるのですが、最近の動向を見るに、ちょっと行き過ぎかな?と。

距離感ミスっているわけです。

私がこのブログを含め考えているのは、「社会は私たちの外にあるのではなくて、既に一人一人の中に埋め込まれている、かのように考えられるようにならないか?」ということです。

社会を変えるつもりで自分を変えようと試みてみる、感じでしょうか。

今後可能であるならば、より具体的に時流に沿った社会問題なんかも扱えたら、とも考えています。難しいですが、やってみないことには、個人の内面のお話にしか過ぎない、ということで、社会分析にも、自己啓発系のお話にも勝てません。勝ち負けではないのかもしれませんが、頑張ります。 

「恩寵を導く」という目安

「このブログについて」にも書かせていただいている通り、ここでの狙いは、「我がこととするとちょっとプレッシャーがきつくて、ついつい無理しちゃったり、逆に逃げちゃったりしがちなことどもを、別の誰か何かに想像上うっちゃることによって、なるべく落ち着いて考えてみましょう」ということ。

肝心の中身=無理しちゃったり逃げちゃったりしがちなことどもって??

  • 考える方法

考える方法において自分自身にかかるプレッシャーって?

  • 自分が置かれた状況に適しているか?もあるでしょうし、内容・事実関係が正確かどうか?という懸念もあるでしょうし、何よりも考えた後どうするか?となると行動がついてきますので、それを想像したときに、当然現れる他者からの視線もあると思います。

そういったもののために、自分で「こっちの方が本当なんだけど」と感じることが多少なりとも加工されがちだったりします。

多少ならよいのですが、小さいズレも都度補正がなされないと、自分の「より本当」が抹殺されてしまいかねません。それは事実を知りたい場合、そのための情報がねじ曲がっていたりして困る。また、一人一人の心理面でも、「自分の本当」を抑圧し過ぎるのはあまりよくないのではないか?と。

それなら、一つ、自分のことではなくて、他の人にもあるであろう「より本当」という感覚。こいつを拾ってあげるつもりで、考える方法というものを見てみてはどうか?ということです。

なのですが。。。

すでに10以上ポストしてみて、どうもフォーカスが甘い感じがしています。

そこで、一つ、何を目指しているのか?目標のようなものを設定してみることにしました。

それが

「恩寵を導く」

です。

 

「より本当」を拾い上げるように考える方法を練ることによって、「恩寵」を導く。

 

分かりやすく言えば「やさしく」考える。そして行動するようになる。しかもみんなで。。

ということなのですが、あくまでも「恩寵」ですので、計算は難しいという認識です。

 

ニュアンスとしては、

人事を尽くして天命を待つ

という感じです。

 

天命というと全く運任せ、神任せ、のようにも理解できますが、ともかくまずは実際に触れ合う人々の善意に賭けてみる、ということに重点があります。

まあ、とある人の考えや行動に、いろんな人がどのように反応するか?は完全にはコントロールはできないわけですから、結局運頼み、神頼みではあるのですが。。。

人智ではコントロールしきれないものがあると認めつつ、だからといって「じゃあ何でもありでええやん」みたいに投げやらない。

やさしさというのは、そういう「ほたらどーせーっちゅうねん!?」みたいなどうしようもなさに思いを馳せてみることで生まれやすくなるのでは?と考えています。 

分けて考えることの効用と留意点

 

私がこのブログで書いていることは、あまり具体性がなくて、イマイチしっくりこない、との声を頂いているわけではないんですが、私自身常に気になっています。

あ。これならいい教材になるのでは?と思い、上記のツィートを引用させていただきました。

「宗教的チャリティ」と「世俗的チャリティ」

チャリティを、この二つに分けて考えてみることで、新たな見方が得られる好例。

慈善活動というと、そんなにご立派なら持っているもの全て捧げるがいい、なんて乱暴な言われ方をされるのもしばしば耳にします。

宗教的な方の捉え方でいけば、チャリティとは、個人と神様の間の問題で、個人は自分の神様と相談してできる範囲を決めても何ら問題はない。

他人がするチャリティをとやかく言うのは筋違い。

チャリティを自分はできないと思えば、神様とお話して、やりませんと決めればいいこと。

 

「世俗」という言い方がピッタリくるとは必ずしもいえないのでは?とも感じますが、昨今の私たちの常識からすると、権利、責任、義務というのが常に頭にありますので、神様とお話して決める、というよりも、法制度とは言わずとも、世間との兼ね合いでモノコトを考える傾向が強くなります。

私の収入と彼の収入を比較するなら、彼はもっと寄付できる、すべきはずだ。

チャリティは慈善なので、それがあることで、却って人間関係がギスギスしてしまうのはもったいない。というか、「世俗」の考え方ばかりだと、慈善の行動が(少なくとも心理的に)妨げられてしまいかねません。

ここは思い切って「宗教的」な方で理解することにしよう!

というように、ちょっと整理しやすくはなります。

が。

行動が伴うとなると、「宗教」と「世俗」とはきれいには分けられません。

ただお祈りするだけでも、それが日々の習慣になっている人にとっては、「世俗」へのお祈りも含まれているはずです。

神様なんて普段は意識していなくとも、数ある「世俗的」判断に基づく行動の中で、ふと「祈りの気持ち」が込められていないとも限りません。

分けて考えるというのは、「どう分けるのか?」の定義が問題とされやすいですが、 私は、分けてみて、分かった後どう考えるか?も同じぐらい大切だと考えています。

「宗教的」のように、神様以外の他者を排して、自己と向き合うことも大切ですが、「世俗」に生きている自分、他者と完全没交渉は不可能、なんてことも忘れずにいられるとよいですね。

まあ現代は「世俗」を生きるのにかなりのエナジーを割かれてしまいがちですので、「宗教的」の方の大切さについてより注意を向けるよう意識した方がいいのかもしれませんが。

論理的思考とか数学とか

みなさん算数って好きですか?

学校で数学苦手だったけど、お仕事とか始めて、「やっぱ論理的思考だよねー」ということで、論理的思考に魅力を感じる、身に付ければ何かが約束されているような気分にはなる、という人も結構いるのではないか?と思います。

社会に出て算数や数学が必要か?という問いは結構頻繁に耳にします。

私の考えでは、もしも論理的思考が身に付いているのなら、別に算数や数学の問題は解けなかったとしても気にしなくてもいいと思っています。が。。。

多分、論理的思考が身に付いていたら、算数の問題ぐらいは嫌だとしても解けるはず。

何故なら、算数や数学こそが論理的思考の練習にもってこいってぐらい、算数・数学は論理でできているから。

何が言いたいのか?といいますと、科目の名前で判断しちゃダメよ♪ってことがまず第一。

論理的思考を身に付けたいと思うなら、ちょっとややこしく思える計算問題やったり、中学数学の図形の証明問題やったりするのがいいでしょう。したがって、いきなり論理学の入門書とかに手を出すとあまりうまくいかないことが多くなると思います。

 

論理的思考を身に付けるための技術的なお話はさておき、そもそもどうなったら「論理的思考が身に付いた」と言えるのでしょうか?

勿論論理学で厳密に検証はできますが、日常生活を平和裡に送るのに、そこまで厳密に検証しようとすることは非常に困難です。いや。寧ろ「必要ない」と言ってしまいましょう。

あくまでも「日常生活を平和裡に送るため」ですので、論理の鬼のような方々はどうぞ目くじらたてられませんように。

お仕事も含め、日常で必要なことは、「論理からズレてしまっているな」という疑惑がわりと自然に湧く。そんな直観・直感が働くようになることだと、私は考えています。

まあ乱暴なんですが、とりあえず自分は論理から外れるのがデフォルトだな、と肝に銘じるのが間違いない方法でしょう。

 

矛盾するようですが、論理は直感的には生まれませんが、私たちの中に論理は宿っています。論理がないならそもそも私たちの体だってこのようには出来上がってないでしょうから。

考え方として、直観では湧き上がってきにくい論理だからこそ、注意してその組み上がり方が納得できれば、未知の領域がほぼ無限に探索しやすくなる、というイメージです。

人間の想像力というのは無限といってもいいかもしれませんが、やっぱりツールが何もないと「多分もっと可能性はあるんだよなー」というような漠然とした状態が続くだけに終わってしまうでしょう。

論理的思考はツール。でも、論理式などをマスターして自在に操れなくとも、理路を外さず一つ一つ段階を踏んでいく感じの考え方ってものもあり、それと直観的な印象での判断とかとの違いが理解できればまずは御の字。ぐらいに考えておいていいでしょう。

論理は直感では生まれにくいのですから、そりゃあ上手に扱えるのは素晴らしいことです。でも一番イタイ種類の人っていうのは、自分が上手にできるからといって、できない様をあたかも人道に悖ることででもあるかのように語る人。

いくら論理が得意といっても、そんな自分の得意げな様子に気付けない、それがために広く社会に及ぼす意味まで想像できないのでは、論理の素晴らしさも半減するというものです。まあそれぐらい、論理が上手に扱えるということと、私たち人間に本来備わっている知的能力全体を総合的に駆使できることとは隔たりがあるということなんですね。

やはり何事も「できるできる」なんて思い込むより、「できる」って感じた時こそ「何か間違えそうだぞ」ぐらいの謙虚な警戒心、振り返る余裕を持つことの方が大事だということでしょう。

 

グルグル回ります

回します。このブログ。まあネタがそれほど豊富でないってことでもあるのですが、同じようなことを繰り返し、ちょこっとずつでも違う言い方をしてみる、というのも結構大事かな?とも考えているのです。

 

真似のことをちょっと話したので、私たちが世の中を分かる仕組みに戻ってみます。

過去記事はこちら。

hamaokahlisboa.hatenablog.com

hamaokahlisboa.hatenablog.com

hamaokahlisboa.hatenablog.com

私たちはモノコトを動きで捕えます。

アクションの意味が分かる。という感じです。

ほら。真似とつながったでしょ?

真似ができるということは目に映る動きが全くわけわからないと難しいですね。

他方、無意識で真似るということも起こります。

特に赤ん坊や小さな子どもが親の真似をしようとするのに、動きの意味まで理解しているとは思えません。

どちらかというと、真似ながら意味が段々と分かってくる感じではないでしょうか?

真似というのも、意識と無意識の狭間にあるといえるでしょう。

 

ところで、私が「モノコトの、動きによる理解」に拘るのは、日常使っている言葉がどうやって機能しているのか?を説明するのに適していると考えているから。

では日常使っている言葉が機能する仕組みとは一体どういった風なのか?

基本はパターン認識

でも言葉というのは一語一語に意味があるので、どうしても一語一語の並べ方に関わる規則の方に注意が向きます。これはパターン認識というよりも、ルールによる統制。とあるルールに従って並べられた言葉(文、文章など)の意味が決まるようなイメージが強いです。

そうなると、実は、私たち一人一人が感じていることなど、言葉のもととなっているであろうセンセーションと、言葉とが切り離されてしまうのです。具体的には、感じたりするのは認識や感知のプロセスで、言葉は言葉でとあるルールに従って組まれるプロセス、という別々のものになってしまうということです。

別々となると、言葉ありき、で、そっから遡るように分析されるのが感知や認識のプロセスということになります。結果、脳みそのどの部分が言語運用に関係する、、、というような分析になります。

これだと、多分永遠に日常の言葉の機能の仕方は分からないでしょう。 だって意味とか分からなくても子どもって耳で聴いたまんまを真似て言葉を段々と覚えていくじゃないですか。つまり、言葉にだって無意識的な方の真似があって、それはまず言葉のルールに従っているというよりも(ルールが脳みそかどっかに組み込まれているのではなく)、ほぼ反射的に真似をして、そうして得られた目に映る、耳で聴いたモノコトに関する情報が、繰り返しなどによってパターンとして認識され、より画一的なルールに従って組織可能な言葉に発展していっている、と考える方が自然だと思うのです。

 

真似ってともかく体のどっかが動くじゃないですか。言葉とか歌にしても、口とか腹筋とか肺とか。そうしたボデーの動きに関する情報なんかもひっくるめて言葉なんてものもできてきているんじゃあないか?と考えています。

何故そのような考え方をする必要があるのか?

  • あまり決まりきった起源があると思い込み過ぎない。
  • 偶然性をもっと温かい目で守り育てる。(目の敵にしてより予測可能なものばかりを追い求めない。)
  • 冒険心を捨て去ってしまわない。(理屈では不確かに思えても、時に直感に賭けてみるっていうのも選択肢としてはキープしておく。)
  • 自分自身の細部(気持ちだけでなく体のコンディションも)への注意力を上げる。しかも楽に楽しむ気持ちで。

まだまだあるんですが、ざっと、上にあげたようなこと、日常のマネジメントに取り入れられれば、もっとリラックスした世の中になるんじゃあないか?今多くの人がなんとなくデフォルトと考えているような考え方、規則や法則をめっけて予測性を上げる、目に見える証拠に基づいて正誤、善悪の判断をする。大事ではあるんですがなんか 窮屈な感じがするんですよね。私たちってもっとアバウトじゃん?みたいな。そういう普段着の気持ちを無視せずに考えることが大切なんだろうと私は信じています。

つながりやすさ

人と人とはつながりやすい。

つながりやすさって満遍なくそして穏便平和な世の中にはつながるとは限らない。

ガブリエル・タルド(1843-1904)という人がいました。

国が現在のカタチ(いわゆる主権国家)に収斂し始める時期に、統計・計数による管理の威力にいち早く気付いた人です。

統計というと、現在では客観的指標というのがなんとなく固まっていて、例えば漠然とした「人の気持ち」が算数でいうところの足し算のように積み重なっていく様を計算しようとはしない。「苦しい」→「生活」→「食費の家計に占める割合」みたいな感じ。

悪くはないんですが、そもそもの「苦しい」というような漠然とした感覚だって伝染しますよね?え?気のせい?

そうでしょうか?

タルドさんは模倣(imitation)と言いましたが、数数えて管理するにしても、気分とかが伝染していく様って無視しちゃあ正確に現実を把握できないんではないでしょうか?

最近、信用に足る情報とは?とか、真実とは?というのが盛んに議論されるようになってきているとおり、客観的事実を確たる証拠で証明する、ということの限界、または、弱点が露わになってきているように思えます。

これまで多くの人が客観的事実と思い込んでいたものが、実はほとんどメディアや個人の名前頼りだったんだ、ということが明るみになった。きちんとした手法で集められた証拠をきちんと分析したものであったとしても、いや、そうであればあるほど、多くの人々の生活感覚からすると、なんだか縁遠い情報ばかり、知りたいことが幾重にも解釈されてどうもピンと来ない。まあなんしか、とっつきにくくってよう分からん。

つまるところ、多くの一般庶民にとってみれば、客観的な事実なんてはっきりいってしまえばどうでもよくて、勝手に信用に足る情報、必要な情報の仕分けはしている、ということなんですね。

で。まだ引き続き、賢げな人たちは「そんなんだからダメなんだ」ってぼやき続けているようなんですけれど、私からしてみれば、そんなん言ったって普通の人が普通の感覚でやっちまうことを否定はできないんじゃないか?って思うんですよね。

逆に、社会全体への影響の大きさを考えると、そういった普通のやり方をカバーできていない方法にこだわって対策を練らないのは、怠慢なんじゃないか?いや、庶民をただの頭数と見て、恣意的にコントロールしちゃえってことしてて、全く悪びれもしないなんて、非倫理的だし、不道徳を働いてさえいるんじゃないだろうか?

本来つながりやすい、つながらないと生きにくい人間が、偽情報を信じて分断しちゃったり、ってのは大多数のバカな人間のせいじゃなくて、「バカ」にしといてそいつらもろくにコントロールしきれないバカのせいなんじゃないか?

ほとんど意識されることがない真似るということの果たしている役割、それによって、客観的事実なんて軽く吹っ飛ぶぐらいの多くの人々が動員されもしてしまうこと。今一度丁寧に見直してみる価値はありそうです。

 

オリジン(起源)は大事

起源というとちょっと大仰に聞こえますが、何事につけ始めが肝心ともいわれます。

始業式にせよ、新職場第一日目にせよ、フレッシュな気持ちで始められれば、なんだかいいことが待っていそうな気もしてきます。

そのように明確に始めを意識させられるケースではなくとも、始まりというのは意外に大事で、意外にもこだわっちゃったりしています。

何故無意識でも大事にしている、なんてことが言えるのか?といいますと、考えるにつけ、喋るにつけ、どこかに始点がないと人間って何もできないからなんです。

例えば、レジのバイトを初めての人に教えるようなとき、まさかPOSのシステム全体の説明から始める人はいないでしょう。どこから始めるのが常識的に効率的で効果的か?というのは、教える方、教えられる方双方であらかた合意されているのが普通といえます。

面白くないですか?

どうやってお互いに適当な始点が大体重なるのか?

常識?

そうですね。

でもすんなり常識が通じ合う時ほど、案外権力関係が強く働いているもので、特に下の者が、受け入れちゃっているんですよね。

かといって何でもかんでも受け入れを拒んで革命を起こせ!なんてことは申しません。

ただ、どっからを適度な始点とするか?というのは結構なせめぎ合いがあるものだと理解しておくことはきっと世の中を渡っていく上でためにはなると思います。

そうなるわけですが、

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