いろいろなカベ(Transcending Boundaries)

個人を起点に考えざるを得ない現代。社会に生まれ落ち生きてかなきゃなんないのは中々つらい。いろんなカベの造りや超え方が分かれば、なんだか楽しくなりませんか?

喋ることの意味

発言するという行動がとれることに含まれている意味について書きました。

 

ほとんど一緒のようだけど、発言よりももっと軽い感じで、何気なく入る会話。挨拶でもいいと思います。

で。

それらの意味とは?

 

「真実を明らかにする。」

 

大げさすぎるでしょうか?

ご疑問の向きもとりあえずお付き合いください。

 

そもそも、誰かの喋ることに含まれている真実って何でしょう?

私は葛藤だと考えています。

みんな何気なく生きているように見えても、色々あるのだろうと。

喋るというのは、何か明確な目的があってそれを達成するために、というよりも、色々不確かなことがあるので探り入れながらより確かな感覚を得ようとしているんじゃあないか?って考えています。

なので、真実を明らかにする、ということであれば、なるべく具体的に、何を探ろうとしているのか?何が原因で探らなきゃなんない状態に置かれているのか?そういった話者の生(なま)の状況についてお互いに明らかにしよう、そしてよりよく知ろうとすることなんではないかなぁーなんて考えています。

そのように想像することができれば、人が人に対してあまり酷いことはやらなくなっちゃうんじゃあないだろうか?と希望的観測を描いています。

まあ小競り合いは起こるんでしょうけれど。。。

じゃあ一体何を巡って争いが起こりやすいのか?

バカバカしく思えるかもしれませんが、

似てるか似てないか?

それとこれは同じと言えるか否か?

これがこじれると「俺は清和源氏の血を引く、、、」とかかなり大げさな話になったりもします。

というかそれこそが人類の歴史なのかもしれません。

そのあたりまた詳しく話してみたいと思います。

気付いていないことは沢山ある

あまりに多すぎるので一つ一つ暴いていく、というのはあまり意味がないように感じます。意味がないどころか、「ヘンっ。だからどうだってんだい?」って反感を買っちゃうかもしれません。図星というのは結構嫌なもんです。

「だからどう?」

これを大事にしなければ、と言い聞かせる日々です。

 

世の中にはいろいろな作法に従って生きている人がいます。

同じ「利他的行動」という言葉でも、やっている本人がイメージしていることは違うかもしれない。

  • 「発言の責任を一切取らないわけではないけれど、とりあえず自分の意見を表明すること自体が、自分が所属する組織・グループへの貢献である。」
  • 「いい加減なことを言って意見をまとまりにくくするぐらいなら口をつぐんでおく。」

前者には、グループへの貢献とまで思っているなら、せめて発言すること自体に含まれている、自分自身の利益についてもより深く考えてもらいたいところ。 

何故なら、何か発言できる、行動をとることができる、ということによって、あなたは都度生まれ変わることができるのだから。

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分けるより仕方ないけど

複雑な社会をなるべくまとまるようにマネージしようとすれば、部分部分に分けて管理しようとすることは避けられないでしょう。避けられないからこそ、一度全員で確認しておいた方がいいと思うのです。

本当は分けない方がいいんだということ。

そうすれば、各自一生懸命分けるための言い訳なんてしなくて済むんじゃないのか?

今はもう言い訳すらしない人ばかりになってしまったけれど、臆面もなく分け続けるのと、心の片隅に忸怩たる思いを抱えながら分けるのとでは全く出来上がる社会が違ってくると思うのです。

それをどう証明すればいいか?

これは私の取り組まなければならない課題の一つ。

それはさておき、まずは分けない方がいいんだということを確認してみます。

全てはつながっている

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善いも悪いもない

以前言っていたことと矛盾しているようですが、気付きって、割りと強めの感情によって呼び起こされることもあると思います。その気付きを呼び起こすことになる感情の中でも、怒りであるとか悲しみであるとかは、できれば感じないでいたい、という意味で否定的にとらえられることも多いと思います。でも、怒りや悲しみに限らず、とある感情を引き起こすようなモノコトに良い出来事、悪い出来事の区別がつけられたとしても、感情が湧き起こってしまうということ自体には、善いも悪いもないのではないか?と思うのです。

感情的になる、というのはいっぱしの大人の美徳とは言えないでしょう。でも、人間は感情の動物ともいわれる通り、たまに抑えきれないような強い感情を覚え、それを他者から明らかに分かる形で露わにしてしまうこともあります。

世の中に賢い人は沢山いるようで、一般的には否定的にしかとられない感情も、抑え方、表現の仕方がある、とこんなに簡潔に説明してくれているんですね。

 

 

 「正確に怒る」とか、「問題を不正に自己内化しない」っていいですよね。

いい、といいますか、何かと感情の問題で悶々としがちな私たちに道標を示してくれているように感じます。

怒っちゃいけないわけではない。

感情を抑えようとするのだって引き続き大切なマナーであり続けるけれど、専ら自分自身の感情やそれへの対応のみを考えていてはダメで、他者との関係や、実際に何が起こったのか?も正確に分析するべきだ。独りよがりは無責任。

感情をコントロールしきるなんて、とりあえず豪語しちゃダメですよね。実際どんなに立派にできているとしても。

 

 

分かるか分からないか3

その場その場での100%絶対厳密なパターン照合は、私たち人間個人個人の能力では、原理的に不可能であるにも関わらず、私たちはどうして白黒つけたがるのでしょうか?原理的に不可能なことで争うなんてバカバカしいと思いませんか?

なんて言っているその言葉からして原理に反してしまっているんですが。。。(100%は無理なのになんで不可能って言い切れるの?)

つまり、無限ループ。

私たちは普段はほぼ全く意識していませんが、どうひっくり返ったって抜け出せない輪っかの中をグルグルグルグル回り続けさせられているのです。

この事実が人生のつらい部分に直接つながっているのだとは私は思いませんが、遠因にはなっているかもしれません。結局のところ、何が起きるかは分からない、ばかりか、「こりゃ絶対の絶対!」って信じていたものさえ覆される可能性もある。中々安心はできないわけです。

白黒つけたくなる気持ちは、気付きの時点で区分している「善」「悪」とも深く関係しています。気付いた以上一旦は何か「いい方」を感じているはずで、できればそれが長く続いて欲しい。アバウトではあっても、そういう比較的安定的に継続するデータは時々刻々蓄積されていっています。ならば、その人なりに、より意識的に、であるからして理屈が合うように、「このように理解しておけばまあ安心だろう」というようなモノコトの理解とその立て方を築き上げていっているはずです。多分そうやって出来上がってきたのが、現代の科学であり、合理的思考というやつなのでしょう。

散々っぱら私自身お世話になってきて、今もこうしてブログなんて書いていられるわけなのですが、どうも何かが抜け落ちているような、落ち着かない気持ちが抜けません。

そのルーツとは。

非常にパーソナルなことなんですが、私は物心ついたころから、大学出るぐらいまでは、専ら自分の気持ちと付き合っていたような気がします。当然親姉弟をはじめ、学校に行けば先生や同級生もいますので、それなりに付き合うわけですが、気持ちが強いんだか弱いんだかよく分からないのですが、まず「うまく付き合えるか?」というのが物凄く気になり、そういう風にウジウジ気にする自分が嫌というか、「なんとかしてウジウジしなくならないか?」と。まあそれ以外でも色々主に自分の性質のせいでいやぁーな気分を招くわけですが、ともかくいやぁーな気分を何とかなくしたいと。そんなことばっかり考えていた気がするのです。

それが大学出るころから社会人始めて、フォーカスが変わったんです。何故か。

他の人たちは、性格とかの違いで私のように自分のウジウジとかが気にならないんではなくて、”自分の気持ち”について考える方法を知らないんじゃないか?と。

例えば、「あなたはあたなのままでいい」と言われたとします。どうしますか?多分あなた自身のこと、主に特徴であるとか属性であるとかを考えるのではないでしょうか?「ありのままのわたしってどんな感じだろう?」

例えば、「あなたって本当に八方美人ね」と言われたら?自分のどういう振る舞いが八方美人に見えるんだろうか?と。

でも、そのように言われた時に感じる気持ちについては、敢えて気にしないようにしているのか?別に必要ないと判断しているのか?たまたまなのか?色々理由があるのでしょうが、ほとんど考えられていない気がするんです。専ら皆に分かるような課題に取り組もうとする感じです。

コレかな?と。最近になって漸く言語化の手掛かりらしきものを見つけたのです。

科学的合理的な手法や考え方、それらが創り出すアイデアから抜け落ちているもの。

それらを起動させているはずの気持ち。

今でもすごく気になっています。なんで時々刻々感じる気持ちって無視されているかの如く忘れ去られてしまうんだろう?特筆すべき関連する出来事もないという場合は、気持ちなんて流されていっても仕方ないとして、上の例で挙げたような言葉が自分に対して投げかけられれば、何か感じるだろう。嬉しいとか、うざいとか、、、。

その後いろいろと考え始めるにせよ、きっかけは気持ちのはず。

それを語らないのは人々との関係性が色々影響するでしょうし仕方ないとしても、分析したりディスカッションを進める上で、自分自身が感じた気持ちってのがないと、なんだか通り一遍のお話で終わってしまうような気がするのですが、そんなことは世間一般ではどうやら別に大したことでもないらしい。

しかしです。

世に悩み事とか、クレームとか、ああーどーしよー?どーしたらいーかなー?って話題は尽きることがない。私たちを動かしているものって、中々形には表しにくいけれども、やっぱり気持ちなんじゃないのか?

でですね。

気持ちが形にしにくいとはいったって、わりと頻繁に遭遇するというか、付き合わされる感情って無限に種類があるわけではないと思うのです。ならば、そういうしょっちゅう出くわすヤツだけでも、なるべく会わないで済むように、会っちゃってもなるべく穏便に過ぎ去っていただけるように対策を講じておいてもいいんじゃあないか?いろいろ起こる問題らしきモノコトって中々予測しがたいし、思いもしなかったコトが起こったとしても、いやぁーな気持ちへの対処の仕方が分かっていた方が、より分析的にコトの方に当たれるのではないか?と。

科学的実証的な分析に気持ちなんて要らない?多分実験室でやるようなやつはそうでしょう。

でも私たちは日常生活で遭遇するあれこれも、そんなノリで分析しないといけないって、知らないうちに思い込んでいるのではないでしょうか?主観を挟まず、客観的事実のみを取り上げる。さすれば、必ず正しい答えはあると。

個人個人がそう信じて追究するのは構わないと思うのですが、人との関わり合いの中でお互いに押し付けあうというのはやっぱりやめといた方がいい。繰り返しますが、個人個人が独力で「これは絶対」とは言えないわけですから。

また、ニュースや身の回りで起こる出来事などを過たず分析できているとして、そうした正確な理解というのは、自分だけではなくて周りの皆が共有してくれていなければそれほど意味がない。けれども、気持ちの面に意識が向かないでいると、「なーんでこんな当たり前の事実を正確に(訳分からん思い込みなしに)理解ができんのや?」って思ったりするだけで、周りの人に与えてしまうマイナスの影響になんて考えが及ばなくなってしまう。そうなってしまうことで、間違っていないことなのに、ただそれを口にするだけで、なんだか疎ましく思われたり、きちんと聞いてもらえなくなったりもする。

なんとなく現在の科学不信であるとか、何が事実やら分からない、という混沌とした状況が思い起こされないでしょうか?

誰もが「うん。それは確かに。」と納得すべき事実というのはあり、世の中を円滑に回していくためにはそうした情報はとても大事です。

でも、これは誰か一人とは言わずとも、ごく限られた人々だけが正確に理解していて、だからその人たちのお手柄だ、というように余計な囲い込みや権威付けをしてしまっては、却って社会的損失に繋がってしまうのでは?と感じています。

賢い人もそうでない人も等しく気持ちは持っています。

そこを忘れないことが道徳の素なのではないか?と考えています。気持ちについて拘るのがどうも生産的でもないし憚られる、という人もいると思います。でも、それって道徳的にも大事で、日々の人間関係で守り維持していった方がいいルールとかマナーとかにも関わること、と理解できれば、もっと大手を振って気持ちってものに拘ったっていいんだ、と思えるのではないでしょうか?次回以降そのあたりについて話してみたいと思います。

分かるか分からないか2

アバウトさは意外と私たち人間の強みなのではないか?という話をしました。でも、現代の世の中は、どちらかというと厳密さを求めているようにも感じます。科学にしても、法律にしても、仕事上の手続きにしても。どれをとっても、現代社会を円滑に運営していくためには、誰もが誤解のないように、厳密に正確に取り決めて理解することが大切です。

やはり、アバウトから入ったとしても、徐々に厳密さを増していく。私たちの理解もそのように変化していくものなのでしょう。少なくとも理想的には。

現代人というのは概ね、理数系の知識に畏敬の念を抱いています。人文系の知識よりもなんだか役に立ちそう、誰もが同じ解答にたどり着けそう、したがって主観的な解釈の違いなんてものが邪魔する余地がなさそう、スッキリハッキリ。でも結構操りにくい。この寄せ付けなさ振りもなんだか魔術に近い神秘感を醸し出しているようです。

人間は理屈で考えるのが実は苦手、と以前いったとおり、数学や物理は多くの人が高校を出るころには触れなくなってしまいます。でも理屈で考えるのをすっかりやめてしまうわけではありません。なんのことはない事務手続きだって、理屈の合わないステップを滅茶苦茶に踏んで、偶然遂行されているわけではありません。

理屈で考えるのが苦手なわけは、私たちの日々の感覚がそもそも比喩的推論によって駆動しているから、ということもありますし、それと関係しますが、理屈で考えるというのは基本的に後追いの作業なのであまりウキウキしない、ということがあります。アバウトでも困ってないんだからいいじゃないか。気持ちはわかりますが、アバウトは所詮アバウト。リスクを読むにしても、簡単な計画にしても、想定外のことが沢山起こります。やり直しがきくような想定外ばかりならやり直せばいいことですが、取り返しのつかないコトだって起こります。やっぱり、アバウトで放置しておいてもOKだ、と大見栄は切れないわけです。

では、みんなで数学者や論理学者張りに論理的にモノコトを考えられるようになる、なんてことを目指すのではなく、アバウト志向と論理志向の関係を知ることで、フツーの人同士のやり取りはまあまあ理屈に適ったようになるのではないでしょうか?そう。誰だってどっちかだけでいいとは思ってないはずなのです。

どんな時に厳密性を求めたくなるのか?はケース・バイ・ケースなので、とりあえず厳密性ってどうやって上げていっているのか?を考えてみましょう。

比喩的推論はパターンの照合で進められています。厳密性が高い、というのはパターン照合の結果がばっちり合一する場合。入れ換えちゃってもどっちがどっちだか分からない。でも「言葉のようなもの」という複数のデータから成るもの同士がばっちり合一しているか?というのは、時々刻々照合作業をしている最中には100%確実には分からない。あくまでも一人一人がやっていることは推論だから。

ということは、高い厳密性を狙う時には、とりあえずめっちゃ似ているものを、仮に同一としておいて、そうすることによりいずれ判明してくるであろう不整合を探し、不整合が探知出来たらその成り行きを検証する、、、、という方法を繰り返すことになります。

まあ通常はそもそもそういう努力を要せずとも、めっちゃ似ていて、入れ替え可能と考えてほとんど問題ないものがどんどんと溜まっていくので、アバウトで十分通常の生活は送ることができます。事実、何年たっても肉眼ではほとんど変化が分からないモノ(石とかプラスチックのコップとか)は、ほぼ同じ刺激を目に送ってきているし、ちょっとずつ変化するのは分かるモノだって、川とかお母さんとかは、同一視しておいてもそれほど問題はない。また、赤リンゴ、青りんご、黄リンゴを、近所のスーパーで見ようが、リンゴ農園の木になっているのを見ようが、異国の市場で見ようが、ぜぇーんぶ「リンゴ」って言ったところで「厳密に言うとリンゴではない」なんてことは起こらない(厳密に定義してもリンゴ)。似たようなパターンというのはそれぐらいの類似度です。こうした、多少の変化や置かれた場面の違いをものともしない比喩的推論の威力(モノをわりと正確に定義できる力)というのは、もっと掘り下げて見てみても面白いので、また別の機会にでも扱いたいと思います。   

ところで、厳密志向かアバウト志向かの関係性について。

既にお気づきの読者もおられることと思いますが、「言葉のようなもの」で比喩的推論をしている私たちに、「これは絶対100%間違いない」なんて言えるような厳密性なんてあるんでしょうか?

ないですよね?

実際科学者が日夜やっていることだって、何が大変って、自分で立てた仮説ならまだいい方で、一応科学者間でお墨付きをもらえた発見だって、自分で反証可能性がありはしないか?と検証し続けることなんですから。

そこまで厳密性に実直に向き合っている科学者だって絶対100%だなんて言えないわけですから、私たちの日常のやりとりでそんなこと言えるわけありませんよね?理屈では。

でもお互い絶対100%(正しい/間違い)を主張し合うなんてしょっちゅう。

これはどういうわけなんでしょうか?

厳密性の意味が違う?

そうでしょうか?

意味の違いが分かっているのであればまだ修正も容易でしょう。

そのためにも、次回は何故人は100%絶対とは言わずとも、はっきりと白黒つけたがる傾向があるのか?について、今回のアバウト志向と厳密志向の関係から見えてきた、100%絶対厳密に入れ替え可能と言えるかどうか?の重大さ(論理的には検証を待たずには言えないのですが)について考えていきたいと思います。

分かるか分からないか1

あまりにも当たり前すぎるかもしれませんが、私たちは世の中のモノコトを名前で呼んだり、モノの性質や動く様子、コトのいきさつなどを言葉にして理解します。算数の図形のように線を引いたり、数式で表したりもしますが、日常の様々な用事を済ませたりするにあたっては、圧倒的に言葉という道具を駆使しています。

言葉って一体どこからやってきたのでしょうか?

勿論何でもかんでも分かっていることを言葉にしたりしませんけど、「感じたこと」「考えていること」って何?って注意を払うと、それらは大体言葉で表されますね。

でもまさか、体のどこかに痛みが走った時に、「痛いっ」て言葉が信号になって、痛みの場所から神経を通って脳みそに至り、それが口から出てくるなんてことはありません。

黄色いタンポポが目の前にあるのが分かっているのは、目の前の植物らしい物体から「黄色いタンポポ」っていう信号が飛んできているからでもありません。

ということは、主に脳みそを使って、光とか体で感知された信号とかが、言葉に変換されているはずです。

言語学者さんや脳科学者さんたちは日夜そのへんの過程を研究されていることでしょう。

でも私は私たちが日常的に駆使している知識とか技法とかに興味がありますので、そちら方面への深入りはいたしません。

「そんな乱暴なことってあり?」と思われるかもしれませんが、私は、私たちは日々言葉のようなもので様々なモノコトを感知して理解していると考えています。

言葉のようなものって?

ほぼ無限に受け続けているであろう様々な刺激を、一つ一つバラバラに処理しているのではなくて、ある程度のデータがかたまって動くものを単位にして、それらの比較参照を行っている感じです。

そのどの辺が言葉のようなのか?というと、ある程度のデータがかたまって動く、その様子を単位としてキャプチャーするということは、データが時系列に順序だって並ぶ、と想定しています。言葉にも語順や単語、文という順序のある程度決まった単位がありますよね。なので、言葉のようなもの、と私は考えているのです。

全く厳密性はありません。ただそう考えた方が色々といいことがあるのです。

私たちが日常感じたり考えたりすることってそんなに厳密じゃありませんよね?

分かり切ったことと思っていても、いざ説明しようとすると詰まってしまったり。

でも、厳密じゃないってことが致命的な障害になっているわけでもないじゃないですか?(問題も起こりますが、厳密に分かるまで全く身動きが取れないなんてことはないですよね?)

ということで、かなり乱暴に思える「言葉のようなもの」を推論ツールとして活用することによって、私たちが日々駆使しているであろう推論の理屈が説明できるのではないか?というのがアイデアです。簡単に言うと最初っから厳密性にこだわり過ぎない、というのがミソです。

かなり抽象的で分かりにくく、かつ、私独自のアイデアの話でしたので、以下「推論」について簡単に説明して、解釈のプロセスについての詳細は次回以降にさせていただきたいと思います。

比喩的推論について

私たちは普段厳密性にそれほどこだわっていない 、と申し上げた通り、基本的には推測でモノコトは扱われます。仮定と言ってもいいかもしれません。先ほどまで説明させていただいた「言葉のようなもの」を、この推測や仮定を組み上げるプロセスに、どのように適用できるのでしょうか?

時系列の順序に並んだ一連のデータ同士を比較参照すると、推論が捗るのです。

何故かといいますと、データを一つずつ照合しようとすれば、結果は「当たりか外れ」、「同じか違う」など二者択一に限られてしまうのに対し、お互い複数のデータを含んでいて、順序がある程度決まっていると、パターンの照合ができるのです。特にデータの種類が限定されていれば。実際神経細胞が扱うデータ(情報伝達のために利用される化学物質)は無限に種類があるわけではありません。

パターン照合というのは、「似ているかどうか?」といった程度にアバウトですが、そのアバウトさが故に、より複雑な情報が扱えるのです。

「言葉のようなもの」を扱っていると考えていますので、言葉を比喩的に使わせていただきますと、石と角がほぼ同じ道具に使われたり、動物の大きさとか動きの速さ(遅さ)からリスクを察知したり、雲の色や形から気候の変化を予測したり、見たこともない巨木に厳かなる感情を持ったり、リンゴとミカンが果物と分類できるんじゃないか?とか、、、。単純な照合に見えて、ちょっとしたズレや違いなどまでもが新たなパターンとして使えるようになる(リソースになる)感じです。

どうでしょう?

科学全盛の現代に育った私たちとしては、厳密な分析能力であるとか、論理の整合性であるとかが人間の強みのような気もしてしまいがちですが、実はよく分かんなくても進む、っていうアバウトさといいますか、無謀といってもいいぐらいの勇敢さなどこそが強みなんではないか?なんて思えませんか?

当然強みなばかりでは済まないのですが、そのあたりも次回触れられればと思います。