分けるより仕方ないけど
複雑な社会をなるべくまとまるようにマネージしようとすれば、部分部分に分けて管理しようとすることは避けられないでしょう。避けられないからこそ、一度全員で確認しておいた方がいいと思うのです。
本当は分けない方がいいんだということ。
そうすれば、各自一生懸命分けるための言い訳なんてしなくて済むんじゃないのか?
今はもう言い訳すらしない人ばかりになってしまったけれど、臆面もなく分け続けるのと、心の片隅に忸怩たる思いを抱えながら分けるのとでは全く出来上がる社会が違ってくると思うのです。
それをどう証明すればいいか?
これは私の取り組まなければならない課題の一つ。
それはさておき、まずは分けない方がいいんだということを確認してみます。
全てはつながっている
続きを読む善いも悪いもない
以前言っていたことと矛盾しているようですが、気付きって、割りと強めの感情によって呼び起こされることもあると思います。その気付きを呼び起こすことになる感情の中でも、怒りであるとか悲しみであるとかは、できれば感じないでいたい、という意味で否定的にとらえられることも多いと思います。でも、怒りや悲しみに限らず、とある感情を引き起こすようなモノコトに良い出来事、悪い出来事の区別がつけられたとしても、感情が湧き起こってしまうということ自体には、善いも悪いもないのではないか?と思うのです。
感情的になる、というのはいっぱしの大人の美徳とは言えないでしょう。でも、人間は感情の動物ともいわれる通り、たまに抑えきれないような強い感情を覚え、それを他者から明らかに分かる形で露わにしてしまうこともあります。
世の中に賢い人は沢山いるようで、一般的には否定的にしかとられない感情も、抑え方、表現の仕方がある、とこんなに簡潔に説明してくれているんですね。
ひとからひどい目に遭ったら、「しかたない」とか「まあいいや」と思うことをやめること。そして、自分の中にうごめく不快感から身を振りほどいて脱出しようとせずに、そこになるべく長く留まるようにすること。「みんな私が悪いんだ」とけっして思わないようにすること。『怒る技術』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2016年11月21日
これもまた一種のマインドフルネス。「怒らない」のではなく「正確に怒る」こと。過度に自分の心の反応だけを観察して、問題を不正に自己内化しないこと。(最後の点はニーチェの『道徳の系譜』の一つの論点でもある。) https://t.co/k4Z2iTl6JP
— 永井均 (@hitoshinagai1) 2016年11月22日
「正確に怒る」とか、「問題を不正に自己内化しない」っていいですよね。
いい、といいますか、何かと感情の問題で悶々としがちな私たちに道標を示してくれているように感じます。
怒っちゃいけないわけではない。
感情を抑えようとするのだって引き続き大切なマナーであり続けるけれど、専ら自分自身の感情やそれへの対応のみを考えていてはダメで、他者との関係や、実際に何が起こったのか?も正確に分析するべきだ。独りよがりは無責任。
感情をコントロールしきるなんて、とりあえず豪語しちゃダメですよね。実際どんなに立派にできているとしても。
分かるか分からないか3
その場その場での100%絶対厳密なパターン照合は、私たち人間個人個人の能力では、原理的に不可能であるにも関わらず、私たちはどうして白黒つけたがるのでしょうか?原理的に不可能なことで争うなんてバカバカしいと思いませんか?
なんて言っているその言葉からして原理に反してしまっているんですが。。。(100%は無理なのになんで不可能って言い切れるの?)
つまり、無限ループ。
私たちは普段はほぼ全く意識していませんが、どうひっくり返ったって抜け出せない輪っかの中をグルグルグルグル回り続けさせられているのです。
この事実が人生のつらい部分に直接つながっているのだとは私は思いませんが、遠因にはなっているかもしれません。結局のところ、何が起きるかは分からない、ばかりか、「こりゃ絶対の絶対!」って信じていたものさえ覆される可能性もある。中々安心はできないわけです。
白黒つけたくなる気持ちは、気付きの時点で区分している「善」「悪」とも深く関係しています。気付いた以上一旦は何か「いい方」を感じているはずで、できればそれが長く続いて欲しい。アバウトではあっても、そういう比較的安定的に継続するデータは時々刻々蓄積されていっています。ならば、その人なりに、より意識的に、であるからして理屈が合うように、「このように理解しておけばまあ安心だろう」というようなモノコトの理解とその立て方を築き上げていっているはずです。多分そうやって出来上がってきたのが、現代の科学であり、合理的思考というやつなのでしょう。
散々っぱら私自身お世話になってきて、今もこうしてブログなんて書いていられるわけなのですが、どうも何かが抜け落ちているような、落ち着かない気持ちが抜けません。
そのルーツとは。
非常にパーソナルなことなんですが、私は物心ついたころから、大学出るぐらいまでは、専ら自分の気持ちと付き合っていたような気がします。当然親姉弟をはじめ、学校に行けば先生や同級生もいますので、それなりに付き合うわけですが、気持ちが強いんだか弱いんだかよく分からないのですが、まず「うまく付き合えるか?」というのが物凄く気になり、そういう風にウジウジ気にする自分が嫌というか、「なんとかしてウジウジしなくならないか?」と。まあそれ以外でも色々主に自分の性質のせいでいやぁーな気分を招くわけですが、ともかくいやぁーな気分を何とかなくしたいと。そんなことばっかり考えていた気がするのです。
それが大学出るころから社会人始めて、フォーカスが変わったんです。何故か。
他の人たちは、性格とかの違いで私のように自分のウジウジとかが気にならないんではなくて、”自分の気持ち”について考える方法を知らないんじゃないか?と。
例えば、「あなたはあたなのままでいい」と言われたとします。どうしますか?多分あなた自身のこと、主に特徴であるとか属性であるとかを考えるのではないでしょうか?「ありのままのわたしってどんな感じだろう?」
例えば、「あなたって本当に八方美人ね」と言われたら?自分のどういう振る舞いが八方美人に見えるんだろうか?と。
でも、そのように言われた時に感じる気持ちについては、敢えて気にしないようにしているのか?別に必要ないと判断しているのか?たまたまなのか?色々理由があるのでしょうが、ほとんど考えられていない気がするんです。専ら皆に分かるような課題に取り組もうとする感じです。
コレかな?と。最近になって漸く言語化の手掛かりらしきものを見つけたのです。
科学的合理的な手法や考え方、それらが創り出すアイデアから抜け落ちているもの。
それらを起動させているはずの気持ち。
今でもすごく気になっています。なんで時々刻々感じる気持ちって無視されているかの如く忘れ去られてしまうんだろう?特筆すべき関連する出来事もないという場合は、気持ちなんて流されていっても仕方ないとして、上の例で挙げたような言葉が自分に対して投げかけられれば、何か感じるだろう。嬉しいとか、うざいとか、、、。
その後いろいろと考え始めるにせよ、きっかけは気持ちのはず。
それを語らないのは人々との関係性が色々影響するでしょうし仕方ないとしても、分析したりディスカッションを進める上で、自分自身が感じた気持ちってのがないと、なんだか通り一遍のお話で終わってしまうような気がするのですが、そんなことは世間一般ではどうやら別に大したことでもないらしい。
しかしです。
世に悩み事とか、クレームとか、ああーどーしよー?どーしたらいーかなー?って話題は尽きることがない。私たちを動かしているものって、中々形には表しにくいけれども、やっぱり気持ちなんじゃないのか?
でですね。
気持ちが形にしにくいとはいったって、わりと頻繁に遭遇するというか、付き合わされる感情って無限に種類があるわけではないと思うのです。ならば、そういうしょっちゅう出くわすヤツだけでも、なるべく会わないで済むように、会っちゃってもなるべく穏便に過ぎ去っていただけるように対策を講じておいてもいいんじゃあないか?いろいろ起こる問題らしきモノコトって中々予測しがたいし、思いもしなかったコトが起こったとしても、いやぁーな気持ちへの対処の仕方が分かっていた方が、より分析的にコトの方に当たれるのではないか?と。
科学的実証的な分析に気持ちなんて要らない?多分実験室でやるようなやつはそうでしょう。
でも私たちは日常生活で遭遇するあれこれも、そんなノリで分析しないといけないって、知らないうちに思い込んでいるのではないでしょうか?主観を挟まず、客観的事実のみを取り上げる。さすれば、必ず正しい答えはあると。
個人個人がそう信じて追究するのは構わないと思うのですが、人との関わり合いの中でお互いに押し付けあうというのはやっぱりやめといた方がいい。繰り返しますが、個人個人が独力で「これは絶対」とは言えないわけですから。
また、ニュースや身の回りで起こる出来事などを過たず分析できているとして、そうした正確な理解というのは、自分だけではなくて周りの皆が共有してくれていなければそれほど意味がない。けれども、気持ちの面に意識が向かないでいると、「なーんでこんな当たり前の事実を正確に(訳分からん思い込みなしに)理解ができんのや?」って思ったりするだけで、周りの人に与えてしまうマイナスの影響になんて考えが及ばなくなってしまう。そうなってしまうことで、間違っていないことなのに、ただそれを口にするだけで、なんだか疎ましく思われたり、きちんと聞いてもらえなくなったりもする。
なんとなく現在の科学不信であるとか、何が事実やら分からない、という混沌とした状況が思い起こされないでしょうか?
誰もが「うん。それは確かに。」と納得すべき事実というのはあり、世の中を円滑に回していくためにはそうした情報はとても大事です。
でも、これは誰か一人とは言わずとも、ごく限られた人々だけが正確に理解していて、だからその人たちのお手柄だ、というように余計な囲い込みや権威付けをしてしまっては、却って社会的損失に繋がってしまうのでは?と感じています。
賢い人もそうでない人も等しく気持ちは持っています。
そこを忘れないことが道徳の素なのではないか?と考えています。気持ちについて拘るのがどうも生産的でもないし憚られる、という人もいると思います。でも、それって道徳的にも大事で、日々の人間関係で守り維持していった方がいいルールとかマナーとかにも関わること、と理解できれば、もっと大手を振って気持ちってものに拘ったっていいんだ、と思えるのではないでしょうか?次回以降そのあたりについて話してみたいと思います。
分かるか分からないか2
アバウトさは意外と私たち人間の強みなのではないか?という話をしました。でも、現代の世の中は、どちらかというと厳密さを求めているようにも感じます。科学にしても、法律にしても、仕事上の手続きにしても。どれをとっても、現代社会を円滑に運営していくためには、誰もが誤解のないように、厳密に正確に取り決めて理解することが大切です。
やはり、アバウトから入ったとしても、徐々に厳密さを増していく。私たちの理解もそのように変化していくものなのでしょう。少なくとも理想的には。
現代人というのは概ね、理数系の知識に畏敬の念を抱いています。人文系の知識よりもなんだか役に立ちそう、誰もが同じ解答にたどり着けそう、したがって主観的な解釈の違いなんてものが邪魔する余地がなさそう、スッキリハッキリ。でも結構操りにくい。この寄せ付けなさ振りもなんだか魔術に近い神秘感を醸し出しているようです。
人間は理屈で考えるのが実は苦手、と以前いったとおり、数学や物理は多くの人が高校を出るころには触れなくなってしまいます。でも理屈で考えるのをすっかりやめてしまうわけではありません。なんのことはない事務手続きだって、理屈の合わないステップを滅茶苦茶に踏んで、偶然遂行されているわけではありません。
理屈で考えるのが苦手なわけは、私たちの日々の感覚がそもそも比喩的推論によって駆動しているから、ということもありますし、それと関係しますが、理屈で考えるというのは基本的に後追いの作業なのであまりウキウキしない、ということがあります。アバウトでも困ってないんだからいいじゃないか。気持ちはわかりますが、アバウトは所詮アバウト。リスクを読むにしても、簡単な計画にしても、想定外のことが沢山起こります。やり直しがきくような想定外ばかりならやり直せばいいことですが、取り返しのつかないコトだって起こります。やっぱり、アバウトで放置しておいてもOKだ、と大見栄は切れないわけです。
では、みんなで数学者や論理学者張りに論理的にモノコトを考えられるようになる、なんてことを目指すのではなく、アバウト志向と論理志向の関係を知ることで、フツーの人同士のやり取りはまあまあ理屈に適ったようになるのではないでしょうか?そう。誰だってどっちかだけでいいとは思ってないはずなのです。
どんな時に厳密性を求めたくなるのか?はケース・バイ・ケースなので、とりあえず厳密性ってどうやって上げていっているのか?を考えてみましょう。
比喩的推論はパターンの照合で進められています。厳密性が高い、というのはパターン照合の結果がばっちり合一する場合。入れ換えちゃってもどっちがどっちだか分からない。でも「言葉のようなもの」という複数のデータから成るもの同士がばっちり合一しているか?というのは、時々刻々照合作業をしている最中には100%確実には分からない。あくまでも一人一人がやっていることは推論だから。
ということは、高い厳密性を狙う時には、とりあえずめっちゃ似ているものを、仮に同一としておいて、そうすることによりいずれ判明してくるであろう不整合を探し、不整合が探知出来たらその成り行きを検証する、、、、という方法を繰り返すことになります。
まあ通常はそもそもそういう努力を要せずとも、めっちゃ似ていて、入れ替え可能と考えてほとんど問題ないものがどんどんと溜まっていくので、アバウトで十分通常の生活は送ることができます。事実、何年たっても肉眼ではほとんど変化が分からないモノ(石とかプラスチックのコップとか)は、ほぼ同じ刺激を目に送ってきているし、ちょっとずつ変化するのは分かるモノだって、川とかお母さんとかは、同一視しておいてもそれほど問題はない。また、赤リンゴ、青りんご、黄リンゴを、近所のスーパーで見ようが、リンゴ農園の木になっているのを見ようが、異国の市場で見ようが、ぜぇーんぶ「リンゴ」って言ったところで「厳密に言うとリンゴではない」なんてことは起こらない(厳密に定義してもリンゴ)。似たようなパターンというのはそれぐらいの類似度です。こうした、多少の変化や置かれた場面の違いをものともしない比喩的推論の威力(モノをわりと正確に定義できる力)というのは、もっと掘り下げて見てみても面白いので、また別の機会にでも扱いたいと思います。
ところで、厳密志向かアバウト志向かの関係性について。
既にお気づきの読者もおられることと思いますが、「言葉のようなもの」で比喩的推論をしている私たちに、「これは絶対100%間違いない」なんて言えるような厳密性なんてあるんでしょうか?
ないですよね?
実際科学者が日夜やっていることだって、何が大変って、自分で立てた仮説ならまだいい方で、一応科学者間でお墨付きをもらえた発見だって、自分で反証可能性がありはしないか?と検証し続けることなんですから。
そこまで厳密性に実直に向き合っている科学者だって絶対100%だなんて言えないわけですから、私たちの日常のやりとりでそんなこと言えるわけありませんよね?理屈では。
でもお互い絶対100%(正しい/間違い)を主張し合うなんてしょっちゅう。
これはどういうわけなんでしょうか?
厳密性の意味が違う?
そうでしょうか?
意味の違いが分かっているのであればまだ修正も容易でしょう。
そのためにも、次回は何故人は100%絶対とは言わずとも、はっきりと白黒つけたがる傾向があるのか?について、今回のアバウト志向と厳密志向の関係から見えてきた、100%絶対厳密に入れ替え可能と言えるかどうか?の重大さ(論理的には検証を待たずには言えないのですが)について考えていきたいと思います。
分かるか分からないか1
あまりにも当たり前すぎるかもしれませんが、私たちは世の中のモノコトを名前で呼んだり、モノの性質や動く様子、コトのいきさつなどを言葉にして理解します。算数の図形のように線を引いたり、数式で表したりもしますが、日常の様々な用事を済ませたりするにあたっては、圧倒的に言葉という道具を駆使しています。
言葉って一体どこからやってきたのでしょうか?
勿論何でもかんでも分かっていることを言葉にしたりしませんけど、「感じたこと」「考えていること」って何?って注意を払うと、それらは大体言葉で表されますね。
でもまさか、体のどこかに痛みが走った時に、「痛いっ」て言葉が信号になって、痛みの場所から神経を通って脳みそに至り、それが口から出てくるなんてことはありません。
黄色いタンポポが目の前にあるのが分かっているのは、目の前の植物らしい物体から「黄色いタンポポ」っていう信号が飛んできているからでもありません。
ということは、主に脳みそを使って、光とか体で感知された信号とかが、言葉に変換されているはずです。
言語学者さんや脳科学者さんたちは日夜そのへんの過程を研究されていることでしょう。
でも私は私たちが日常的に駆使している知識とか技法とかに興味がありますので、そちら方面への深入りはいたしません。
「そんな乱暴なことってあり?」と思われるかもしれませんが、私は、私たちは日々言葉のようなもので様々なモノコトを感知して理解していると考えています。
言葉のようなものって?
ほぼ無限に受け続けているであろう様々な刺激を、一つ一つバラバラに処理しているのではなくて、ある程度のデータがかたまって動くものを単位にして、それらの比較参照を行っている感じです。
そのどの辺が言葉のようなのか?というと、ある程度のデータがかたまって動く、その様子を単位としてキャプチャーするということは、データが時系列に順序だって並ぶ、と想定しています。言葉にも語順や単語、文という順序のある程度決まった単位がありますよね。なので、言葉のようなもの、と私は考えているのです。
全く厳密性はありません。ただそう考えた方が色々といいことがあるのです。
私たちが日常感じたり考えたりすることってそんなに厳密じゃありませんよね?
分かり切ったことと思っていても、いざ説明しようとすると詰まってしまったり。
でも、厳密じゃないってことが致命的な障害になっているわけでもないじゃないですか?(問題も起こりますが、厳密に分かるまで全く身動きが取れないなんてことはないですよね?)
ということで、かなり乱暴に思える「言葉のようなもの」を推論ツールとして活用することによって、私たちが日々駆使しているであろう推論の理屈が説明できるのではないか?というのがアイデアです。簡単に言うと最初っから厳密性にこだわり過ぎない、というのがミソです。
かなり抽象的で分かりにくく、かつ、私独自のアイデアの話でしたので、以下「推論」について簡単に説明して、解釈のプロセスについての詳細は次回以降にさせていただきたいと思います。
比喩的推論について
私たちは普段厳密性にそれほどこだわっていない 、と申し上げた通り、基本的には推測でモノコトは扱われます。仮定と言ってもいいかもしれません。先ほどまで説明させていただいた「言葉のようなもの」を、この推測や仮定を組み上げるプロセスに、どのように適用できるのでしょうか?
時系列の順序に並んだ一連のデータ同士を比較参照すると、推論が捗るのです。
何故かといいますと、データを一つずつ照合しようとすれば、結果は「当たりか外れ」、「同じか違う」など二者択一に限られてしまうのに対し、お互い複数のデータを含んでいて、順序がある程度決まっていると、パターンの照合ができるのです。特にデータの種類が限定されていれば。実際神経細胞が扱うデータ(情報伝達のために利用される化学物質)は無限に種類があるわけではありません。
パターン照合というのは、「似ているかどうか?」といった程度にアバウトですが、そのアバウトさが故に、より複雑な情報が扱えるのです。
「言葉のようなもの」を扱っていると考えていますので、言葉を比喩的に使わせていただきますと、石と角がほぼ同じ道具に使われたり、動物の大きさとか動きの速さ(遅さ)からリスクを察知したり、雲の色や形から気候の変化を予測したり、見たこともない巨木に厳かなる感情を持ったり、リンゴとミカンが果物と分類できるんじゃないか?とか、、、。単純な照合に見えて、ちょっとしたズレや違いなどまでもが新たなパターンとして使えるようになる(リソースになる)感じです。
どうでしょう?
科学全盛の現代に育った私たちとしては、厳密な分析能力であるとか、論理の整合性であるとかが人間の強みのような気もしてしまいがちですが、実はよく分かんなくても進む、っていうアバウトさといいますか、無謀といってもいいぐらいの勇敢さなどこそが強みなんではないか?なんて思えませんか?
当然強みなばかりでは済まないのですが、そのあたりも次回触れられればと思います。
善悪のかたまり
常識ってフツーの人々のアートなんじゃないか?って気がしています。
気付きの時点で「善」「悪」の区別が含まれていると言いましたが、実は気付かないでとっている行動にだって含まれている。ただ、気付いていない以上、日常生活に活かすことができる知恵、という観点からはちょっと範囲外かなーと。
とはいえ、自分の、ではなくて、他の人の行動(動く様子)を見て、いろいろと解釈してしまうのは避けられないことなので、「そーいうもんかな?」って覚えておくといいと思います。
「そーいう」って?
目に映ったな、って自覚できるようなものは、「そこに現に表れている」という意味で、プラス、有無でいえば「有」の方、ネガポジだと「ポジ」の方、の意味(価値)がある、という感じです。
何が言いたいのかというと、目に入ってしまうようなモノ、コト(eventみたいな感じです)には、連綿と「有」がつながっているので、「無意味」みたいな存在否定につながる見方は慎めるようになるといいでしょう、ということです。
常識がフツーの人々のアートだ、というのも、こういった、相互関係が含まれているからかなー?と考えています。
相互関係というのは、動いている本人は気付いてなくても、動いているのが目に入っちゃった人はその人なりに様々意味を考えちゃう、というような関係。
決して平等ではないんですね。晒す方と見えちゃう方。
どれだけ注意していたとしても、全ての「勝手に解釈」は防げない。という意味では平等と言えますが。。。
常識なんてものがなんとなくでも多くの人々に共通に認識されるようになるのも、もとをただせば、私たちの間に避けがたく存在している非対称な関係にあるのです。「勝手に解釈」がともかく全ての人に許されている。
全ての人に許されているとはいっても、誰それさんのあれこれについて気付くか気付かないかは偶然でしかないし、それよりもさらに、声のデカさというか、「こういう風に見えちゃったんだったら見えたんだーい」って主張を押し通せるかどうかって、地位とか身分とかいろんな技能や知識の習熟度などにかなり大きく影響されちゃいます。まあそうして主張を通そうとする人、仕方ねーなーって妥協する人、そんなこととは露知らずなんとなくの雰囲気で振舞いを決めちゃっている人、いろいろあってみんなの常識が定まったり変わったりし続けるわけです。
自分の主張が通るならストレスだって少なく済むでしょうけど、常にどんなことについても、っていうのは独裁者にでもなれなければ無理。そんな多くの人にとってはファンタジーに過ぎない話ではなくても、日常で「独裁者」ってあだ名される人なんていっぱいいるでしょう?あなただって知らないだけかもしれない。そう呼ばれていることを。。。
「勝手に解釈」ってやっぱり恐ろしいですよねー。さらにそれはどうやったって防げないなんて。。。
まあそーゆーことなら、ネガじゃなくてポジを信じるしかないでしょう。
しかし、そんなに簡単なことなら苦労はしない。猜疑心は自らを苦しめるだけだなんて分かってはいても中々抱かずにおれるもんでもない。
一つ注目してみるといいのは、不完全で何かと紛争の種にもなってしまう常識ですが、全部結局プラスの連なりなんですよね。誰も何も一切したつもりがなくても、そこにいるだけで「解釈」されてしまう。勿論解釈は肯定的なものと否定的なものとがありますが、常識と認められている以上、残るものはプラス。特に常識なんてものがあるとさらに人々の動きが一定のパターンに収れんしやすくなるので、ますますプラスが増える。そうなると段々プラスの意味が意識されにくくなっていく、ということにもなるのですが、そうではあっても、不特定多数の人々がいろんな事情も踏まえ、プラスを選ぼうとはする、という傾向は否定できない。例えば、意識的に現状打破を狙って、マイナスをぶっこんでくるような人が現れたとしても、プラスにつながる何かがないと、多分勢いが続かない。どうやっていくか?は様々だけれど、ともかくかなり多くの人のプラスが集まらなければ、多くの人々が認識できるようなカタチが残せない。
実際常識が定まらないような混沌に巻き込まれるというのは相当生きにくいのだろうと思いますが、それでも基本的にはプラスを目指す。いや、目指さないという行き方はどんだけ意識で奮い立たせようとしても不可能なのです。
平和な日常を叶えるために大切な「信じる」ということと、それを困難にさせる猜疑心と。
究極的には不確定な部分は排除できないのですが、それでも「信じてみよう!」の方になるべく頻繁に舵が切れたらいいですよね。
そのための秘訣は、私たちは特に何をしているでもなくてもともかくプラスな存在で、そこは否定できないということ。それでもプラスをマイナス或はゼロと疑ってしまわざるを得ないそのワケ。これを知ることにあります。
不意に見えちゃうものも解釈してしまう。その過程について次回は詳しく見ていきたいと思います
気づきから始まる
大人になると、いろんなことが見えてくる。特に現代を生きていれば、成長とともに強化されるのは理屈。小さな幼子が理屈をこね始めるのはなんだか見ていてほっこりする。でも、それも段々とうざくなったりもする。大人は理屈で考えるのに、子どもが理屈をこねるのは小憎らしい。はて?大人同士でもそんなことは案外しょっちゅうないか???
理屈で考えるというのは”大人のたしなみ”でもあるように、わりと制限がたくさんかかっている。その制限を無邪気に超えてこられると、笑える時もあれば、「なんで?自分だけ我慢してんの?」って腹が立ったりもする。
あれ?制限かかってるんだったら、かかってない状態ってものがどっかにあるのでは???
もしも人によって超えたり超えなかったり差があって、それがコンフリクトの種になるのなら、ようし、いっちょ夢の自然状態とやらを定めて、みんなそっから平等に始めようじゃないか!
まずはっきりしているのは、人間は自分が考える理屈に従って動いているわけではないし、理屈で考えるのは超苦手。
「考える」の理屈度がいかほど正確か?の問題もあるけど、そもそも「考える」に至るまでの過程に理屈がある。つまり、私たちが通常「理屈」と考えているものは、「考える」に当たっての制限。ルール。そういった制限やルールを時々超えてくる人がいるのには理屈がある。制限に従う必要性なんてものに全く気が付かなかったり、従わない方が快適ってことに気付いちゃうから。
道徳的にも倫理的にも、まだ必要性に気付いていない方がまし。
でもここで問題にしているのは、どんな人にも共通の理屈。平等な出発点。
そうです。全ては気付くか気付かないか。
なんでこんな当たり前のことに気が付かないんでしょう!?
なんて言いたくなることはしょっちゅう。他人に対しても、そして、時に自分自身に対しても。
でも。。。
常識常識とか言い合って気まずくなることがあるように、「気付け!」ってしばきまわったところで気付かないときは気付かない。
気付いた者がリードしていかなければなりません。
何故なら、気付く方は「善」「悪」の区別を付けてしまっているから。
気付いていない方は文字通り無垢。法的用語でいうところの「善意」。
相手が立派な大人で、過去にはちゃんと気付いていたとしても、気付けなかったというからには無垢。無垢な人間をいきなりしばいちゃあいけません。
まずなすべきことは、気付いた方が、一体何を「善」で何を「悪」と感じているのか?と問うこと。分かり切ったことであっても。
お互い相反する「善」「悪」に気付いている時は?プロセスは同じです。お互いの「善」「悪」を振り返る。まあこちらの方は大人同士であれば咄嗟に議論のカタチをとったりするんでしょうけど、何気ない行動に現れる意見とか価値観の違いにも、背後に各々の思い描く「善」「悪」の区別がある、そしてそれはごくシンプルな気付きに既に含まれていること。知っておくことは、妥協点がどうしてもみつからない、なんて修羅場の時なんかに、理屈でいろいろと解決策をひねる際の一助にはなるのではないでしょうか?
世の中はもっと複雑だ!
そうです。
特に大人になれば社会的に常識とされていることに全く無頓着ではいられません。
常識などというものがどうやってできてくるのか?私たちはどうやって身に付けていくのか?次回はそのあたりのことについて考えてみたいと思います。